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怒りたい人々

20代半ば以上の方は、平成に流行った『あたしンち』という漫画を知っているだろう。アニメ化もされており、金曜夕方の『あたしンち』→『ドラえもん』→『クレヨンしんちゃん』のゴールデンラインナップを楽しみにしていたあの頃。

『あたしンち』の漫画を今読み返してみると、お母さんはなかなかクレイジーだ。
みかん、ユズヒコに叫び散らすシーンの多いこと多いこと。平成のお茶の間には受け入れられていたが、令和のお茶の間には受け入れられないだろう。(もちろん、個人的には今でも好きだ)

ところで、

あなたのまわりに、「自分のために怒りたい人」はいないだろうか。他者に対して自分の主張を強い口調で突きつける人だ。

そうした人らがもつ最大の共通項は、相手に対する関心を示さないことだろう。相手の背景や心情など、相手の物語には一切の関心を示さず、自らの主張が正しいと信じて止まない。端的に言うと相手を理解しようとしない。突き詰めて言うと思考していない。

私の狭い視野において、小学校ではベテラン教諭に、それも低学年を長年経験しているような人物にその傾向が多く見られるように思う。

何故、わずか7才ばかりの児童に怒鳴りつけることができるのだろうか。勤め始めたばかりで余裕のない新任者ならまだしも、プロとして長年勤めている人物が怒鳴っている光景を見ると痛ましい気持ちになる。

あたしンちのお母さんが生きた時代に取り残されているのだろう。
SNSが普及しておらず、知識も経験も全て大人が掌握していた時代。
「全く、大人が言わなきゃしょうがないんだから」という空気に溢れていた時代。
怒鳴ることが、許されていた時代。

過去というものは、現在に否定されていくのが常だ。そうして歴史はつくられてきた。

すくすく子育ての生田大豆は、記事の中で「足りないことを言うのは、素人でも言えます。」と妻からの指摘を受け反省したことを書いていた。妻が正しい。頷ける。

ましてや教育者であれば。

足りないことへの指摘が正しい行為だという意識。それを、改めてほしい。
怒鳴る、指摘するしか持ち合わせていない引き出しに、中身を増やす努力をしてほしい。
怒った自分を正当化するために共感を周囲の大人に求めないでほしい。

そして、この言葉は30年後の自分たちに中身を変えて返ってくるのだと自覚していたい。

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