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「コピーは、コーヒー牛乳飲みながら。66」第59回宣伝会議賞グランプリ受賞者・宮崎響さんインタビュー

六十六杯目は「それではお聴きください。
川端康成で伊豆の踊り子。」

「芸能事務所1020社に電話をかけるか、
イー・スピリットか」

皆さん、第60回宣伝会議賞、ほんまにお疲れ様でした! 

あれから1ヶ月が経ちましたが、いかがお過ごしでしょうか? さて今回のお相手は、その前回のグランプリ・宮崎響さん。普段は大阪の広告代理店でアートディレクター・コピーライターをされています。

アートディレクターとしての視点も活かされたという第59回の受賞作品。その話を聞くために取材を申し込んだところ「でしたら大阪中之島美術館で行われる『岡本太郎展』に一緒に行きませんか?」という嬉しいお誘いが。

岡本太郎といえば、大阪のシンボル・太陽の塔を手がけた伝説の芸術家。それを宣伝会議賞・グランプリと一緒に観れるなんて! と喜びながら大阪・中之島で合流しました。

しかし途中から想定外の展開に!? 思わぬハプニングに巻き込まれつつ、言葉の本質についてじっくりお話を聞けました。いつも以上のボリュームですが、ぜひ「最後」までご覧ください!!

学んだのは、技術よりも考え方。
視野が大きく広がった美大受験。

————ご出身は新潟で、東京の予備校を経て岡山の美大。そして就職は大阪というご経歴をお聞きしました。

宮崎さん:出身は新潟県の最西端にある糸魚川市です。高校時代は特に部活にも所属せず、学校が終われば友人宅でギターや麻雀……といったごく普通の学生でした。そんな私が突然進路として美術・芸術方面に行こうと思ったのは、公務員であり画家でもあった父の存在が大きかったですね。

彼は油絵や彫刻をやっていて芸術方面の友人も多く、家にはそんな作家さんたちの版画や焼物なども飾ってありました。父に連れられて美術館や展覧会に足を運ぶことも多く、そんな環境が進路に強く影響していると思います。

https://www2.nhk.or.jp/archives/jinbutsu/detail.cgi?das_id=D0009250405_00000

宮崎さん:ただ本当のターニングポイントは、高校3年生の夏にグラフィックデザイナーの亀倉雄策さんがお亡くなりになったことでした。テレビなどで改めて亀倉さんの作品を目にする機会があり、その多くが過去に展覧会などで目にしていた作品だったこと。そして同じ新潟県出身ということにも縁を感じ、グラフィックデザインの世界に強く惹かれていきました。

当時は漠然と経済学部を志望していましたが、今心惹かれているものをやりたい。そんな思いから、高校三年生の秋から急にデッサンを始めたんです。

————すごく思い切った、進路変更だったんですね。

宮崎さん:結果として浪人するわけですが(笑)。でも予備校時代も自分にとっては大切な時間になりました。上京して国分寺の美大予備校へ通うことになり、一番初めにクラス分けのために全学生が集まって石膏デッサンをしたんです。

初心者の自分は、まずは場所取りが重要ということで、一番いい光が当たっている石膏像の真ん前に陣取ってデッサンを始めたわけです。描き始めから6時間ほど経った頃、教室の後ろの扉から学生が一人入ってきて、一番後ろにイーゼルを立ててデッサンし始めたんです。その時はあと2時間じゃ間に合わないだろと思っていたんですが、いざ講評で一番いい点数がついたのがその人のデッサンで。

————それ、めっちゃ落ち込むやつじゃないですか……。

宮崎さん:圧倒的なマウントですよね。よくよく聞いてみると、既に実力充分で授業料も免除されてる多浪生で。「これはやばい世界だ」と衝撃を味わいました(笑)。上手い人って、描いた時間に関わらずどの段階で見ても良い絵なんです。「こんなすごい人が3浪? 芸大って何なんだ……」と感じざるを得ませんでしたね。

宮崎さん:ただ予備校の実技講師が、名前の通った油彩画家の先生だったのは凄く幸運でした。教えていただいたのは小手先の技術というより、物事の見方や考え方で。描き方を教わればその時はまねでできても、モチーフに代わった途端に再現性がなくなる。「なぜそうなっているか」という疑問を持たないと気づけないことが山ほどあって、本当に「見る力」の大切さを教えていただけたんです。

ARTS、Twitter、箭内さん。
多くの出会いを経て公募賞再開へ

————その予備校生活を経て、岡山の美大に進学されて……そこで宣伝会議賞と出会われた。

宮崎さん:定期購読していた広告雑誌は「宣伝会議」ではなく「広告批評」でしたが(笑)もともとグラフィックデザインから広告へ興味が広がっていったので、当時はコピーライティングに対する感度はかなり低かったんです。グラフィックデザインって言葉に頼らなくても成立するものと思っていたくらいなので。

宣伝会議賞に初挑戦した時は、15本程書いて1本通過だったと思います。ただ……それで初めてSKAT(宣伝会議賞の通過作品集)に名前とコピーが載るという経験をしてとても興奮しましたね。

————確か、第1回のSKATが出たタイミングだったんですよね。

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