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「コピーは、コーヒー牛乳飲みながら。34」平成最後の宣伝会議賞コピーゴールド、協賛企業賞トリプル受賞者・三上智広さんインタビュー

三十四杯目は、「目立たないぞ精神」

「知らずに選ばれている。それが京セラです。」

「赤ちゃんも、社会も、泣かせない。」

「世界を動かすビジネス街で、人の心を動かしています。」

みなさん、ついに本日2019年4月30日をもって平成が最後を迎えますが、いかがお過ごしでしょうか? さて今回のコーヒー牛乳は、な、な、なんと! 北海道・札幌よりお伝えしております!

なぜ札幌にいるかというと、ズバリ平成を締めくくるに相応しい取材対象者・三上智広さんにインタビューするため。三上さんは第56回で素晴らしい結果を出されたコピーライターさんなんです!

まず京セラの課題で

「知らずに選ばれている。それが京セラです。」

の協賛企業賞を受賞。さらに日本触媒の課題で

「赤ちゃんも、社会も、泣かせない。」


三菱一号館美術館の課題で

「世界を動かすビジネス街で、人の心を動かしています。」

のコピーも含めトリプルで協賛企業賞を獲られまして。そして…。

「目立たないぞ精神。」


日本ガイシのこちらのコピーでコピーゴールドを受賞! 過去類を見ない結果を出されて56万点のコピーが集まったこのコンテストを卒業されました。(ゴールド受賞以上は翌年から応募不可になる)ぜひお話を聞こうと北海道に飛んだのですが、この時点で過去類を見ない経費樹立!(涙)しかしそれを支払うに値する素晴らしいお話を札幌時計台、そしてさっぽろテレビ塔のある大通公園でお伺いできました。

それでは、三上さん。お勤め先含め、自己紹介よろしくお願いします!

三上さん:みなさん初めまして。三上智広と言います。就職したのはバブル崩壊から数年の時でして、たまたま受かった広告会社「アド・ビューロー岩泉」に25年在籍し続けており、専業ではありませんが、こちらで現在コピーライターもしています。

————25年! かなり長くお勤めなんですね。

三上さん:諸説ありますが、北海道の地場では最も古い広告会社と言われていて。創業者が大正時代に石炭商から始め、蓄音機を扱うようになり、レコード販売、そして広告へと事業を広げ、改組してできたのが今の会社と聞いています。広告以前の事業も含めその長い歴史を気に入っていることが、在籍し続けている理由かも知れません。

————歴史の長い会社なんですね…! ちなみに三上さんが広告業界を目指したきっかけは何だったのでしょう?

三上さん:中島らもさんに憧れていたから、というのが理由の一つですね。小説家・エッセイストとして数々の名作を残した中島らもさんの前職がコピーライターということで興味を持ちました。雑誌「宝島」に中島さんが連載されていた「啓蒙かまぼこ新聞」は中学生の頃から読んでいたんですよ。私にとって「宝島」はバイブルでしたね。

あの雑誌には他にもみうらじゅんさんや、いとうせいこうさん、安斎肇さんなど今でも活躍されている方々が当時から執筆されていて。音楽も、インディーズ(自主制作盤)のミュージシャンが多く取り上げられ、レコードやCDを買いあさって聞きまくって、いろいろな面でその後の私の人格形成に大きく影響を与えた雑誌と言えます。宣伝会議賞に取り組んでいる間は、よくこの頃に聴いていた曲を聴いていました。ものづくりへの初期衝動のようなものを再び感じたかったからかもしれませんね。

————僕も好きな音楽を聴きながらコピーを書いているので、お気持ちすごくわかります! コピーライターになられたのは、入社されてすぐ?

三上さん:いえ、当時は営業の募集しかなかったので、営業部配属でした。しかし、やはりコピーが書きたい。というか、コピーライターになりたいという思いが強く、独学で勉強を始めました。インターネットが普及していない時代だったので、知識の多くは書籍から得ていましたね。

三上さん:「コピーライター入門」(原鴻一郎・石田勝寿監修/電通)でキャッチコピーを勉強したり、「新・名作コピー読本」(鈴木康之著/誠文堂新光社)に掲載されているボディコピーを写経したり。特に影響を受けたのは「コピーライターの実際」(仲畑貴志著/KKベストセラーズ)。コピーライターになる方法の一つ、コンペに入賞して実力をアピールするという項目の中で「宣伝会議賞」の存在を知りました。

独学の成果もあり、わりとあっさり数本が一次を通過。あの頃の自分にとっては全国誌に自分の名前が載るなんて夢のようでした。その時、懇意にしてくださった企画部の先輩が転職されるタイミングだったんですが、賞の実績を鑑みて、私を営業部から企画部の後釜に据えるよう会社に進言してくれたんです。今でもその先輩には感謝していますね。会社が変わった現在も、私が受賞すると祝ってくださいます。

コピーライター養成講座・札幌教室第1 期受講。当時の同期生の活躍が再起の道へ

————その後は独学だけでなく、養成講座にも通われたとか?

三上さん:ええ。運良く企画部に転属したものの、独学ではもう限界だなと思っていて。そんな時に仲畑貴志さんの書かれた「業界まる見え読本〈1〉コピーライターの実際」に出ていた「コピーライター養成講座」の第1期教室が札幌で開講されるというじゃないですか。自腹で十数万円の受講料は少し躊躇しましたが、同僚の女性が受講を決めたことに遅れを取るものかと私も決意しました。

雑誌でしかみられないような東京の講師陣。地方の広告会社では身につけることが難しい、東京発の広告の考え方を特に意識して学びました。それ以外にも講座で勉強したことは、コピーだけではなく広告の仕事全般において、今でも私の根幹になっています。

————なんと、札幌教室での第1期生だったんですか…! 受講された当時のこと、より詳しくお聞きしても良いですか?

三上さん:当時ファンだったのが、まだ電通に在籍されていた岡康道さん。あの方が講師の回がありまして、その時に「岡康道の仕事とその周辺」(岡康道著/六曜社)にサインをいただいたのが、大きな励みになりましたね。

教室では、自分より上手く書ける人がたくさんいて。根気強く指導してくださった地元の講師陣の元、提出課題の優秀者に送られる金の鉛筆でとうとう一位は獲れませんでした。自分でも多少はコピーは上手いと思っていたのでショックでしたが、だからこそ真面目に取り組めたのかも知れません。

講義終了後の講師を囲んでの懇親会もほぼ毎回出席していたのを覚えています。そのうち幹事グループみたいなのが自然とできて「卒業文集」を作ろうという話になりました。有志を募って作成した「卒業文集」。これからコピーライター養成講座を受講する皆さんも何か形にして残した方が、その後の励みになるかも知れませんよ。

————素敵な思い出ですね…しかし30代に入ってからコピーの公募賞・宣伝会議賞への応募を止められたとか?

三上さん:応募をやめた理由は良く覚えていません。それまで北海道で一次通過本数一位だったのを誰かに抜かれたのか、大手のクライアントを担当することになり公募を続けていることが望ましくないと自分で判断したのか…確かそんな理由だったと思います。

三上さん:40代になり再挑戦し始めた理由は、幾つかあって。その中で一番大きかった理由は、ACジャパンの全国区のコピーを書いている、自分より活躍している養成講座時代の同期が応募し続けていたからだと思います。あんなに成果を出している人ですら頑張っているのに、自分は何をしているのだろう?と。

当時の私の仕事をする環境はあまり良いとは言えず、不平不満ばかりでした。しかし、日々の仕事の不満をぶつぶつ言っていても、何も変わらない。変えようと思うなら、自分から何か始めないと。そしてなにより、コピーを書いている人なら宣伝会議賞のタイトルが欲しいはず。立場上応募できないといった障害がないなら、何歳になっても挑戦するべきだと再挑戦を始めました。

上限の倍を書き半分に削る。徹底したスケジュール管理。ストイックな作戦実行が突破口に

————ではここより、大通公園へ移動させていただきます。復活された4年目以降から最終的にゴールドを受賞されるまで計8つの賞を受賞されたわけですが、この間の取り組みや心境にどのような変化がございましたか?

三上さん:初年度の応募は600本。確か一次通過は10本に満たなかったはずですが、それでも久しぶりに全国誌に自分の名前が載ったのを目にした時は、震えるほど嬉しかったですね。翌年は800本、1,250本、と徐々に本数を増やしていったのですが、一向に賞を取れる気配がなくて。

20代の自分ならたぶんここでやめていたと思いますね。でもそれでは何も変わらない。まず、自分が上手いという意識やプライドを捨てて、リセットしないと。ここで心が折れなかったことが受賞へのターニングポイントだったと思います。

————そしてその次である第54回の「テンピュール・シーリー・ジャパン」の課題で協賛企業賞受賞されたんですよね。

三上さん4年目の応募数は1,450本。宣伝会議賞事務局から電話が来た時は、手も声も震えました。4年かかってようやく手が届いた、嬉しさよりぐったりとした倦怠感のようなものを感じました。出張もなく旅行も趣味ではない私は、東京へは久しく行っておらず贈賞式への参加は躊躇しましたが、先輩から「そこに行きたくても行けない人だっているんだから行っておいで」と背中を押してもらい出席させていただきました。

虎ノ門ヒルズでの式は想像以上に華やかで、また来年ここに来ることを心の中で誓いました。なにより協賛企業賞は黄色いリボン、ファイナリストは赤いリボンを着けていて、当日はどうやら赤いリボンの人たちがチヤホヤされているぞ、と。もちろん協賛企業賞は嬉しい、でも来年は自分も赤いリボンを着けたい。まだ、ここがゴールじゃない。そんな思いが強く残りました。

————では、翌年の第55回も挑戦の仕方を変えたと。

三上さん:それまでは全課題応募していたものの、書ける本数までしか書かないでいました。赤いリボンに到達するためには、今まで通りのやり方は捨てようと思い、上限まで応募する決意をして。それも、上限の2倍書いて半分に削る、そのためには毎日書く本数を決めたノルマ制と徹底したスケジュール管理、そこまでしないと到達できないと思いました。 

A4のB罫ノートの真ん中に線を引いて1周目と2周目は41本ずつ、反対のページに3周目20本と、4周目に気休めで5本ずつ、1課題合計107本以上。但し、テレビのみといった課題は例外。これを全課題やりました。宣伝会議賞への取り組み方を従来の実務シミュレーション型から、短距離走り込みや筋トレのような基礎鍛錬型に変えたと言えます。

5年目、応募数は2,300本、初めての全課題フル応募。宣伝会議賞事務局から電話が来て、告げられたのは想定外の3課題での協賛企業賞でした。協賛企業賞ダブルは前年にも数人いて、羨ましいと思っていたのですが、トリプル?って。

特にアウディ・ジャパンさんの課題で、いわゆる宣伝会議賞っぽくないコピーで受賞できたのは大きかったです。協賛企業の最初である目立つ位置で、目立つコピーで獲れた。名刺代わりの一本。これが私の名前を色々な方に覚えてもらえるきっかけになりました。「コピーは、コーヒー牛乳飲みながら。31」の奥村さんに出会ったのも、この時です。奥村さんからは、北海道が震災の時も真っ先に安否を気遣うメールをいただきました。それ以来、何かとお世話になっています。

第56回宣伝会議賞。平成最後に起きた奇跡と令和に向けて

三上さん6年目、応募数は2,700本。2度目のフル応募。やり方は変えず、5,400本以上書いて半分に削っての渾身の応募でした。1〜2周目は1日40本×3課題の1日120本、3周目は1日20本×7課題の1日140本、毎日書き続けていました。ありがたいことに、結果は協賛企業賞トリプルとコピーゴールドのクアドラプルでした。

————かつてない、素晴らしい結果ですね…改めておめでとうございます! それぞれの作品の企画意図をお聞かせください。

三上さん京セラの「知らずに選ばれている。それが京セラです。」は、1周目の8本目に書いたコピーでした。通常、最初にホームページなどで資料を10〜30分、ざっと目を通し大枠を捉えたらすぐに総論的なコピーから書き始め、詳細な資料を見ながら徐々に各論的なコピーに移行していく書き方をしています。そのため、このコピーは最初の方に書かれているのでかなり総論的でした。複数事業を展開している会社を一言で言うって、本当に難しいですね。もしかすると、情報をインプットしすぎていない段階で書いたのが良かったのかもしれません。

日本触媒の「赤ちゃんも、社会も、泣かせない。」は3周目、しかも最後から2番目に書きました。この課題、きっと送られてくる作品は「おむつ」のワードだらけになる。また「おむつ」というワードのままでは社会的に有意義な事業をしていることと繋げるのに少し遠くなるため、言い換えが必要。「おむつ」の言い換えで、これからの未来的なイメージを持つ「赤ちゃん」を思いついたのは良いけれど、なかなかうまくまとめられない。3周目でようやく、この言い回しにたどり着きました。

三菱一号館美術館の「世界を動かすビジネス街で、人の心を動かしています。」は1周目、5本目のコピー。ノートの下書きでは「日本を動かすビジネス街」になっているので、手直しをしています。美術館では世界の名画を扱っているので、世界という単語の方がしっくりくると考えたのだと思います。三菱一号館美術館さんは三菱地所さんの直営で、美術館がある丸の内一帯も三菱地所さんの手によるもの。「世界を動かすビジネス街」という言葉自体が三菱地所さんの業績を表していることも、協賛企業賞に選出していただいた理由の一つかもしれません。

————そしてコピーゴールドを取られた、日本ガイシの…。

三上さん「目立たないぞ精神。」は2周目の6本目に書いたコピーでした。多書き・速書きなので、この瞬間どんなマインドで書いたのかは良く覚えていませんが、単純に「目立とう精神」の反対を強めに言いたかったのだと思います。審査期間中に、Twitterなどでいわゆるバイトテロによる炎上騒ぎがあり、「目立とう精神、けしからん」の風潮が大きかったのが選出された背景かな?と思います。

これが、そのコピーゴールドの証である世界でたったひとつのトロフィー。しかし三上さんは壇上でこれを受け取ることはできなかったそうです。

三上さん:父が3月4日に亡くなり、式のある3月7日は葬儀で喪主をしていましたので、贈賞式当日は欠席。受賞を知ったのは、後日宣伝会議賞事務局から届いたコピーゴールドのコメント依頼のメールで、でした。

父を亡くしたショックに、宣伝会議賞の卒業。もう、虎ノ門ヒルズに行けない喪失感。会いたかった人たちも沢山いた。日々父の手続き関係に追われ、正直なところ嬉しいという感情がまったくわきませんでした。

しかし後日、宣伝会議賞事務局より特別贈賞式を開催してくれるとの連絡が入りました。4月6日を指定し、奥村さんに連絡すると偶然その日に東京の宣伝会議賞受賞者・ファイナリストのメンバーや「コピーは、コーヒー牛乳飲みながら。16」の沖縄の長井さんが集う飲み会があるとのことで、参加させてもらえることになりました。加えて、協賛企業賞をいただいた三菱一号館美術館さんよりご招待の連絡も。その際に奥村さんとも約1年ぶりに会えることになりました。

三上さん:あの日のことは、忘れません。あの日がなければその後も陰鬱とした日々を過ごしていたと思います。宣伝会議賞事務局にも、三菱一号館美術館さんにも、奥村さんにも、飲み会に参加させてくださった皆さんにも、本当に感謝しています。あの日、ようやくコピーゴールドと卒業を受け入れられた。でも、2番なのに卒業しなくてはならないことには、やはりどこかにくやしいという思いが残っています。

————そんな三上さんが抱く、これからのビジョンはなんでしょうか?

三上さん:もう年齢も年齢ですので、独立や転職はリスクが高いと思います。今のところは、現在所属している会社の収益にどれだけ私の実績が貢献できるかを考えています。しかし、一方で他に取り組んでいる販促コンペのような課題解決型の企画立案が北海道において一般的に理解されているとも考えにくい。せっかく全国的な賞をいただいたので、全国的な企業とも仕事がしてみたい気持ちもあります。

北海道は広告の分野について遅れをとっているイメージがあったと思います。しかし、宣伝会議賞では昨年は3人、今年は4人、私を含む北海道の人が受賞者・ファイナリストになり、北海道は広告が盛んというイメージに少し近づく一歩になれたかもしれません。全国的な賞に挑戦することで、北海道の立ち位置を再認識できたのも成果の一つです。

この後、どんな風に年を重ねていくかについては、奥村さんが理想です。若者を励まし、アドバイスをしたり、人と人をつなげたり、それでいて自分の挑戦心も忘れない。もちろん、奥村さんのようには、とても自分はなれそうにないので、後進のためにできることから始めていこうと思います。

————これだけ多くの受賞経験を経て、なんと謙虚な…。

三上さん:結果だけを見ると確かにこの3年でたくさんの賞をいただいています。しかし、そこには初めて宣伝会議賞を獲るために費やした4年間や、試行錯誤、無駄にも思える努力があります。仮に才能があったとしたら、努力の方向を間違えなかったこと。私は、天才じゃない。天才じゃなくても、地方在住でも、ここまでやれるということは証明できたかも知れません。妬みや嫉みを、相手に向けても自分自身は一歩も進んでいない。悔しさが、幾つになっても自分を成長させるのだと思います。

最後に「目立たないぞ精神。」のコピーとともにさっぽろテレビ塔との撮影というお願いにも応じてくださった三上さん。平成を締めくくるに相応しいインタビュー、本当にありがとうございました! それではみなさんの令和でのコピー生活を祈り、サッポ○ビールを、ぐいぐいっ。

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