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つばめが飛んだ日

その巣はカップ麺でできていた。使い捨てながら丈夫で、彼らの安寧の場所だった。民家の玄関の扉の上にできた巣は最初からもろく、あぶなげだった。だから誰かが直してあげたのだろう。あまり見ない近代的なほうの巣になっていた。これが5月。僕はバイトを四つしていた。授業に通い、大学生だった。

その巣を見かけるのはいつも気が向かないときだった。彼らが懸命に生きる場所は僕の散歩道の最初のあたりで、家からは反対方向に、目的もなく歩く途中だった。忙しなく親鳥が行き交い、子供は目の開かない顔を大きく広げて叫んでいた。巣で子育てを行う鳥は成長に差がでるものらしく、陣取る場所が悪いとなかなか餌をもらえない。声が小さくてもダメだ。小さい戦いがなん度も繰り返されて彼らは大きくなっていく。僕は授業にあまり行かず、バイトに疲れ始めていた。梅雨前の湿気がベッタリと喉に張り付いて、僕は陸上でエラ呼吸をしているような苦しさを覚えていた。スクスクと大きくなっていく彼らが羨ましかった。

今年は天気予報がよく外れる。昨日の予報で雨だった翌日はあまり降らなかった。雨が降らないと客足が落ちないからバイトの時は雨が降っていて欲しかった。雨の前日はつばめは低く飛ぶというが、僕は巣の前をあまり通らなくなっていた。巣は僕が観測しなくても成長を続け、みるみる手狭になっていく。苦しいのはもうたくさんだった。僕はバイトをひとつやめた。

鳥の巣は成長に差が出たり、托卵によって自らの子孫を残せなかったりするし、何より蛇が稚児や卵を狙う。決して安全ではなかった。でもとても心地よい場所だった。ツルツルとして水を弾く巣には穴が開いてなかった。ここから何かが溢れてしまうことはない。食べカスも糞尿も全部が僕であった。他のきょうだいたちに負けないよう、口を開けて大声を出せばよかった。そこが世界で、それが全てだった。

親鳥が帰ってこなくなった。すっかり目の開いて羽毛の色も深みを増し、巣は汚く、狭かった。見捨てたのだと気がつくまでに少し時間がかかった。いよいよ欲望を満たす方法がない。陽気の下で古い毛を抜きたい。水辺で朝一番の爽やかな水で喉を潤し、そのまま汚れた体を洗いたかった。腹がなり、羽根が疼いた。その場所に居続けてはいけなかった。

何かをしたくないときに僕は散歩をする。全く不立派な散歩でつばめが巣から飛び出して動かし慣れていない羽根を思いっきり不格好に動かししかし、飛んでいた。安寧の地を捨て世界に飛び出した彼らに光は眩しくしかも初めてだった。何もかも新鮮な瑞々しさ、まさに世界に誕生した日であり、世界が作られた日だった。こんにちは、世界。こんにちは、つばめ。

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