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夫のスーツを30年ぶりに新調する

「いつまでその男子トイレのマークみたいな肩パッドのスーツを着るの?」

「これでいい、着る機会もほとんどないし、俺は全然困ってないんやから。」

そう言って、約30年前に結婚した際、オーダーメイドで作った深緑色のスーツを着て、その日も夫は出かけようとしていた。

どう見てもシルエットがブカブカしていて古くさい。
肩パッドがバリバリで、フロントボタンが2列ついたダブルの上着。
スラックスはツータックで、股上が深くて裾までズドンと太い。

1990年代から出てきたみたいな彼の一張羅のスーツは、やっぱりどうしても野暮ったく見える。

もう、2024年だもんね。

そんなダサいおじさんのままにしていたら、妻的に私もやっぱり気が引けるので、スーツを新調しようよ、とこれまで何度も夫に勧めてきた。


ややこしいことに、夫は服を買うのが苦手で、ひとりで買い物に行きたがらない。
しかも、せっかく買ってきても、ちょっとでも違和感を感じた服は絶対に着ない。

特にスーツは慎重に選びたいので、私が一緒に買い物に行ければよいのだが、我が家は夫とふたりで買い物へ行く機会がほとんどないので、彼のスーツを新調するのは簡単ではなかった。

それに夫は、仕事ではスーツを着る機会がほとんどない。たまに会議や大切なセレモニーで着るだけだ。
だから、普段はスーツをすっかり忘れていられるので、久々に登場するスーツ姿を見ても、「まぁ、仕方ないな」と、あまり気にしないようにしながらやり過ごしてきた。

でも一昨年、いざという時に、やっぱりちゃんとしたスーツが必要だな、と痛感する出来事があった。
それは、長女が結婚する際の、両家の顔合わせの席でのこと。

長女の旦那さまのお父さまが、今風のピシッとしたスーツ姿で、我が家に来られたのだ。
それに反して、夫は気楽なポロシャツ姿。
夫の脇腹をつねりたくなった。


この時から私はずっと、夫のスーツを絶対に買う!と心に誓い、その機会を伺ってきた。




めずらしく、夫とふたりで買い物へ行けるチャンスが巡ってきた。
肢体不自由の二女が施設へ行く日、たまたま夫が仕事を休めることになったのだ。

「1時間半しか時間がないけど、一緒に買い物に行ってくれる?」

という私の誘いに「食材を買う」と彼は思い込み、ちゃっかり買い物に付き合ってくれた。

娘を施設で預かっていただき、2人で向かった先が紳士服のチェーン店で、夫はがっかりした顔になった。

「はー?俺、何もいらんけど。まさか、スーツか?年に1回か2回しか使わないから、いらんって!今のやつでいいって!」

とグズる夫を「見るだけ、見るだけ」となだめながら、店内へ入っていった。



あまり訪れたことのない紳士服のお店は、黒、紺に溢れていて、同じにしか見えないスーツがきれいに列を成して並んでいた。

その列からちょこん、ちょこん、と人の姿が見え隠れしている。
ふと、茶畑を連想した。

店内に入って左手が紳士服コーナーで、手前にセール品が並び、奥へ行くほどお値段が高くなっているようだった。

興味がないと言っていた夫が、「セール品でいいわ!」と言いながら、好きな紺色ばかりを物色し始めた。

私は何を基準に選べばよいのか、さっぱりわからず、値札ばかりを眺めて首を傾げていた。
そこへ、マダムな店員さんがスリスリっとそばにやって、「何かお探しですか?」と私たちに笑いかけた。

「夫のスーツが欲しくて。何を基準に選んだらいいのか、わからなくて。」

そう言うと、胴回りや袖丈などを測り、夫に合うサイズを2つ、3つ、セール品コーナーから出してきた。

なすがままに夫は袖を通し、「ちょっと肩がきつい」とか、「ちょっと色の光沢が嫌だ」とか、何やら自己主張を始める。

「では、こちらはいかがですか?」

と、マダム店員が次々に出してくるスーツと一緒に、私たちは奥へ奥へといざなわれて行く。

あかんよな、高い商品のほうへどんどん向かってる。
これ、まんまとマダムの商法に乗っちゃってるよな。

俯瞰で見ている私がそう言ってくるが、ご機嫌にスーツを選ぶ夫の姿を見ていると、私は何にも言えなくなった。
とりあえず、夫が買う気になっているようなので、しばらくそのまま様子を見ようと思い、彼が試着するスーツの感想を大げさに述べ続けた。

最終的に、3着のスーツから選ぶ流れになった。もちろんセール品は含まれていない。

ちょっと安い、まぁまぁのお値段、わりとお高めの3段階から、真ん中を選ばせる手段、「ゴルディロックス効果」を狙っているんだな、とわかった。
敏腕マダムの戦略通りだ。

当然、お高いスーツが一番着心地が良いに決まっている。素材やデザイン、伸縮性も間違いない。
でも、ここは王道の真ん中かなぁって、私の中では覚悟が決まっていた。

すると夫は、何の躊躇もなく、一番高いスーツを指差して、

「色もいいし、肩まわりが楽やし、しっくりきた!これにするわ!」

ときっぱりとマダムに言った。
マダムはニヤリと笑い、彼をフィッティングルームへ誘導していく。

ようやくその時点で、夫は値札を見て、びっくりしていた。
彼は興奮のあまり、値段を全く気にしていなかったのだ。

私はアイコンタクトで『もう、値段はいいから余計なことは言わないで!』と夫に伝えて、スラックスの裾上げの準備をしているマダム店員さんに、必死で余裕の笑みを向けた。

夫が気に入ったのならいい。
いっぱい着てくれることが、何より価値があるんだから。

そう思うと、30年もずっと愛用していた、あの深緑の「肩パッドスーツくん」は価値があったわ!と思った。


スラックスの丈は昔とは違って、床を掃除するみたいな長い丈にはしないし、そもそもガボガボしていなくて、形がシュッとしている。

フィッティングルームでバッチリとスーツを着た夫は、ちゃんとおしゃれな令和おじさんになっていた。

「うん、なかなかカッコいい!それにしてよかったよ!」

と言うと、マダム店員も、

「ほんとによくお似合いですね!」

と持ち上げてくれる。さらにマダムは、

「シャツやネクタイはよろしかったですか?」

と、追加の商品を勧めてきた。
さすが、抜け目ない!

「そうだな、ついでにシャツやネクタイ、ベルトも買い替えようかな。」

とか夫が言い出したので、娘の迎えの時間を理由に、それはバスっと却下した。

危うく、商売上手なマダムの口車に乗ってしまうところだった。
あんなに嫌がっていたのに、すっかり「買う買うモード」のスイッチが入っている夫が、なんだか無性におかしかった。



夫は新しいスーツをかなり気に入ったようで、それ以降、必要のない日までスーツを着て仕事に行くこともある。
だから高くても、買ってよかったと思っている。

これから訪れる子どもたちの大切な場面や、いざという時に、バシッとこのスーツで決めてほしいものだ。

そして次は、私もいつかの大切な日に向けて、フワリ、キラリとマダム感のある洋服を新調したいな、と密かに思っている。




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