夫の夏のチャレンジを応援したい
「俺、西の山に沈むオレンジ色の夕陽を見て、涙が出てきたんやわ。」
帰宅した夫が、私にボソリと言った。
「詩人かい!そんな大げさな!まぁでも、よく頑張ったやん!大成長、偉かった!」
夫が病院に行く決心をした。
夫が行く先は、無呼吸外来だ。
彼はかなり前から、眠っていると、怪獣のようなイビキの途中で時々息が止まる。
夜だろうと、うたた寝だろうと、激しく息が止まる。
その度に、こちらがついつい数を数えてしまうほどに。
睡眠時無呼吸症候群、おそらく夫はそれだ。
私が病名をわざわざ言わなくても、本人はずっと前から自覚があったはずだ。
「俺、寝ていたら苦しくて起きることがあるわ。」とか
「俺、寝ても寝ても眠いわ。」とか、以前から彼が言っていたからだ。
でもなぜだか怖がって、あれこれ理由をつけながら、夫はなかなか病院に行ってくれなかった。
それがこの夏、自分から病院に行くと言い出した。
理由はよくわからないけど、還暦おじさんになり、孫ができておじいちゃんになり、健康に暮らしたいという気持ちが強くなったんだと思う。
とりあえず大きな総合病院の耳鼻咽喉科で診察を受け、来月入院して検査をすることになった。
たった一泊の検査入院。
夜ごはんの後に行って、朝ごはんの前に帰ってくるだけの入院だけど、たくさんの説明を受けて意気消沈した夫は、重病人のような気持ちになってしまった。
そして、夕陽を見てふいに涙が出てきた、と、やつれた顔で帰宅してすぐに私にそう言ったのだ。
彼がビビり切っていてちょっと笑ってしまったけど、すごい一歩だと思って、彼を労いながら詳しい検査の話を聞いた。
医師の説明を聞きながら内視鏡で鼻の中を見せてもらい、自分でも自分の状況がよく理解ができたらしい。
完全に、CPAPという鼻マスク式の人工呼吸器が必要になるだろう。
「あんなすごい機械を付けたら、繊細な俺は眠れない。花粉症で鼻づまりのとき、送り込まれた空気はどうなるんやろ。」って、夫は余計な心配までしている。
でも、夫は繊細ではない。彼はどこでもいつでも寝られる人だ。
それに娘が人工呼吸器を12年間も使っていて、彼は呼吸器の安全性や素晴らしさも充分に理解し、扱いにも慣れている。
だから、私は何にも心配していない。
「大丈夫、付けてもちゃんと寝られるし、毎日がグンと楽になれるはず。」
「そうやな、職場の人もわりと何人も使ってるわ。でもあんた、二女と俺に挟まれて寝ることになったら、呼吸器の音がやばいよな。」
2人でそれを想像してクスクス笑った。それも、逆におもしろいか。
夫が良い睡眠を手に入れて、元気はつらつに生活できたら、それって、ほんとにほんとに最高なことだと思う。
その数日後、夫が朝食の時、味噌汁を飲んだついでにサラリと話しかけてきた。
「俺さ、自動車の教習所に申し込みに行くわ。仕事帰りにちょっと通うから。そんで、バイク買うから。」
目尻のシワは深いけど、やんちゃな昔の中学生のような目をして、こちらを見てくる。
俺は病院にちゃんと行ったんだから、バイク買ってもいいやろ?みたいな雰囲気が、彼からヒシヒシと伝わってきた。
彼がずっとバイクを欲しがっていたのは知っていた。もう、しっかりちゃっかり欲しいバイクも決めているようだ。
大学時代の夫はいつも原付でぶらぶらしていたし、関西から九州まで、友だちと野宿しながら原付で旅行したくらいだから、もともとバイクは好きな人だった。
最近になって、彼はバイクのYouTubeばっかり見て研究しているし、バイク屋さんにも見に行っているようだから、かなり具体的なことまで考えているのだろう。
夫が乗りたいのは125ccのバイク。
それには小型二輪の免許が必要なので、夫の場合は自動車教習所の講習を少しだけ受け、試験に合格すればOKらしい。
ちょっとバイクは怖いけど、おそらく近場をチョロチョロするだけだろうから、それも彼の人生の楽しみになるのなら、いいかなと思う。
怖がっていた病院にもちゃんと行ったんだし、毎日ずっといっぱい頑張っているんだし、まだまだ60歳なわけだし、そのくらいの夢やご褒美が夫にもあっていい。
それに何でも、やりたいことをやれる時にチャレンジしてほしい。
「いいやん!やりなよ!買いなよ!私もヘルメット買うからさ。」
夫はキョトンとしていた。
「あんたも、教習所に通うの?」
そんなわけがない。
この夏、私は夫のバイクの後ろに乗せてもらいたい。
ただし怖いから、ご近所一周だけね。
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