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だから「SLAMDUNK」は永遠に美しい【映画スラムダンク】

映画公開から約2ヶ月、興行収入100億円突破おめでとうございます!言わずもがな納得の大ヒット。

ヒットした要因は原作者の井上雄彦先生が監督と脚本を担当した純度100%であること、バスケットボールのリアリティを追求した圧倒的クオリティ、宮城リョータを主人公に「ポイントガード(PG)」というバスケにおいて最重要ポジションの選手を深堀した新規エピソードと同時に、名ゲーム・山王戦をプレイ重視で映像化したことが大きいように思う。

山王戦前夜の宿での彼らの様子、試合開始前のアップでのやり取り、湘北の試合を見ていた海南のセリフ、板前姿の魚住、親にもバスケの神にも恵まれた沢北のバックボーン。

シンプルにまとめられているからこそ見れば見るほどカットされたシーンが自然と脳裏に浮かび、台詞が勝手に脳内で流れる。

そうして自分のなかで「自分だけのSLAMDUNK」が完成されていくのだ。

これは青春の一過性ではなく、「SLAMDUNK」と、「SLAMDUNK」のキャラクターと共に成長していくような強い手応えなのだ。

イラストや小説など次々と二次創作が生まれているが、これは二次創作の作り手としても読み手としてもまた別の感情。

井上先生が描きたかったことを受け取ると同時に、もともと大好きだった作品が自分が受け取ったままの感情で色付けされていく。情熱が次第に強固な骨太となる今までにない感覚だ。

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原作を丸ごと全てを映像化せず、特に漫画でのラストシーンがごっそりカットされている点では「未完」である。

我々の思う映像化の完成形は「絵が動いて」「声が吹き込まれた」のが一般認識だと思う。アニメ化されるとそれが「正解」になってしまうのだ。

花道役の木村昴さんならあの「左手は添えるだけ」をどのように言うのだろう。

試合終了後、安西先生が両手を上げて喜ぶポーズを入れるとしたらどのようなアングルで描くのだろう。

原作通り花道が主人公だったら?もし流川のバックボーンがもう少し色濃かったら?

原作でカットされたシーンは上演時間の考慮やリョータのエピソードを書くにあたって不必要だったのではなく、不思議と「”正解”を教えなかっただけ」のように感じてしまうのだ。

私は答えのないものや未完成の美しさが大好きだ。その余白には作品を受け取った個人の感情がその作品にまるまる入るからだ。

「読んだひとの想像にお任せします」とぼんやりしたまま丸投げするのではなく、井上先生が「これを(これも)描きたかったんだ」を描けるひとだから、作者が描きたかったものと読み手が見たかったものののコントラストがはっきりしており、こんなにも余白が美しく感じるのだと思う。

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山王は「最後まで自分たちのバスケを貫いて」負けた。

湘北は「やりたかったバスケを捨ててまで勝利にこだわり」勝った。

私は勝つことを前提に王者のプライドと信念を貫いた山王も、勝つためにプライドを捨てて勝利に注力した湘北も、どちらの選手も、どちらのバスケも、底抜けに泥臭くて、底抜けに美しいと思っている。

見れば見るほど誰にも見せない自分だけの「SLAMDUNK」が出来上がっていく。

誰にも見せないから未完であり、未完こそ美しさの真骨頂だと思っている。

だからきっと「SLAMDUNK」は永遠に美しいのだ。


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