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「枯葉」生老病死と言葉では言い表せない何か。

19世紀のスペインの詩人ベッケルの短編小説。
風に舞い、ふきよせられた二ひらの枯葉が、こしかた行く末を語り合う、ちょっと宮沢賢治のような手触りの物語。

「あなたは、どこから来たの?」
「あたし、大勢の仲間と一緒に、舞いまい風にさらわれて、果てしもない野面を吹かれて来たの。そういうあなたは?」

こんなやりとりから枯葉同士の会話は始まる。「あたしたちが芽を出した美しい日」を回想し、光と風を受けて輝く日々を懐かしがり、やがて色褪せ枯葉となり、風に吹きさらわれて、この先いつ終わるとも知れない風まかせの長い旅に身を委ねるしかない行く末を愁い、「さよなら」を交わしながら、風に吹かれて舞い去って行く。
枯葉の会話では、印象的な表現に出会える。
「あたしたちの一人一人が、森の音楽のひとつひとつの音色だった」
「あたしたちの一人一人があの色の調和の一はけ一はけだった」
「夜露の貸してくれたあの涙」

この小説には実は語り手がいて、自分がふと耳にした枯葉の会話を記すという形になっている。枯葉がお互いに「さよなら」を言って、風に吹かれて夜の闇に消えていくと、語り手は最後に締めくくる。

わたくしはそのとき、今思い返すことのできない何かを考えていました。たとえまた思い返せても、それは言葉で言い表せることではないと思います。

語り手が枯葉の会話を聞きながら考えていた、言葉では言い表せないものとは何なのか?
読んでいると、確かに物語の奥に何かがありそうな気がする。
枯葉の会話は彼女たちの一生を物語っている。仏教で言うところの「生老病死」。色褪せ干からびて、気味の悪い言いようもない悲しいものに変わる「老」、蝶やトンボが残した虫が体の節を食い荒らし、背中におぞましい蛆を背負いこませる「病」、そして風にさらわれ夜の闇に見えなくなる「死」。
そんな枯葉の命の営みを聞いて語り手が考えたこと、それは死にまつわること、生にまつわること、命にまつわること、それらの真実を表すもの、決して言葉では表せられないもの。
その何かが、今度は読み手の心の奥にそっと触れていく。そこに何かがあると感じさせる。語り手は言葉で表せられない何かを、枯葉の会話を通して伝えているのだ。

枯葉の会話によって確かに表現されてはいるが、それを「何」と言葉で表せられないもの。語り手はその何かを枯葉の会話から感じ取ることができた。そもそもどうして枯葉の会話が聞こえたのか? その理由は冒頭に記されている。

魂が肉体から離れ去り、自己の個性を失って、自然を構成する諸要素に融和し、彼等の存在と交渉し、彼等の不可解な言葉を読み解くことのできる瞬間もあるのです。

語り手がここでは触れていないことがある。
それは枯葉が死んだ後のことだ。枯葉たちは風に吹かれ、人に踏まれ、やがて塵や埃とともに消え去るだろう。でも次の春、枯葉たちが生まれ育った木々には新しい芽が生まれる。新しい葉が繁り、また一生が始まる。
その葉と枯葉は別の命なのだろうか、それとも同じ命だろうか。

岩波文庫
「緑の瞳、月影、他十二篇」
ベッケル(著)、高橋正武(訳)

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