「土くれ」いつの時代にも、どこの国のどんな街の片隅にもひっそりと生きているマライア

街の片隅で生きる一人の女性の万霊節(今のハロウィンにつながるもの)の夜の出来事を描いてる短編で、出てくる人がみんな心優しく思いやりを持っている(万霊節というお祝いの日のせいかもしれないが)ので、とても心和む一遍です。

主人公のマライアはいつの時代にも、どこの国のどんな街の片隅にもひっそりと、でもしっかりと生きていそうな女性です。彼女がいかに慎ましく、控えめに、まじめに生きてきたか、また人には思いやりを持って接し、周りの人々からは非常に好かれている様子が淡々と描かれます。
「マライアは体がそれはそれは小さかった。だが、非常に長い鼻と、また非常に長い顎をもっていた」「笑うと鼻の先がほとんど顎の先にくっつくのであった」マライアの外見の描写はこれぐらいです。大まかな年齢も書かれていませんが、かなり年をとっていること、結婚していないことなどが読み取れます。人物の背景などの説明は必要最小限にとどめられ、マライアの一晩の行動に寄り添って、淡々と出来事が描かれます。

マライアが万霊節の夜、ジョーの一家のパーティー(というか、近所の子供を数人集めたちょっとした団らん)に招待されて向かいます。ジョーとは、昔、彼女が子守として育てた男性で、彼は「マライアは僕のお母さん」と慕っています。マライアはその夜の訪問をとても楽しみにしています。ずっと以前から楽しみにしていた様子がうかがえます。
でも、その夜が彼女にとって幸せな楽しい一夜になるかどうか、さっそく不安になってきます。ちょっとした出来事の描写が、彼女があまり運がいいとはいえない人間であることを指し示しています。きっと何か不都合なこと、嫌なことが起こるだろう、そして彼女のささやかな楽しみは台無しになるだろう(小説というものはえてしてそういうものですから)。読みながら、そんな予想が浮かんできます。でも彼女は「仕方がない」と笑顔を浮かべてなんとかそれをやり過ごして、また日常に帰っていくのだろう、そんなふうにちょっと心を塞がれながら読み進めることになります。

確かに不都合なこと、不運なことがいろいろと起こります(やっぱり!)。タイトルの「土くれ」もそこからきています。でも、良いことも起こります。とても些細なことですが、良いこともちゃんと描かれます。そのどちらも、マライアは淡々と受け止めます。まるで、これはいいこと、これはあまりよくないことと、それそれ丁寧にたたんで、同じ引き出しにしまうように。

団らんの最後に、マライアは請われて歌を歌います。その歌はまるで彼女の少女時代の夢のような歌詞です。その歌を聴いて、ジョーが涙するところも印象的です。

タブリン市民(新潮文庫)
ジョイス(著)/ 安藤一郎(訳)

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