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人は貼り紙を読まない



「本日は閉店しました」と書かれたドアを勢いよく開け


「まだやってますか?」と聞くでもなく、当然やっているつもりで入店してくるお客さんの対応のために状況を説明するため閉め作業を中断するなんて話はよくありまして。


こちらでお待ちください(待たない)


当店では〇〇はございません(注文→あげく逆ギレ)


〇〇はこちらに置かないでください(貼り紙の真下に置く)



客と店主の関係だけでなく、会社内や公共機関など



具体的な事例を上げたら枚挙に暇がないのですが、

貼り紙は読まれないもの

立て看板や説明書、パソコンのポップアップも似たようなもの。


そう割り切っている人は多いのかもしれない。


人はびっくりするほど文字を読まない。


事実、貼り紙を貼る側からすると読まれていないから起こる不利益な事例が後を立たない。

ちゃんと統計を取ったら貼り紙を読んでほしい対象者に対しての効果はかなり薄いんじゃないかと思う。(僕のいた現場では毎回会議で確認してたくらい。)


「そこに書いてあるやないかい案件」は後を立たない。


視線のど真ん中にどでかく貼ってあっても読まれない

読まれたうえで無視されるのか、そもそも読んでないのか


どちらにせよ期待した効果はおおよそ発揮していないように思える。


読まれて当然と思うわけではないけど
読まれなくて残念、悲しいという気持ちにはなる。


残念=SORRYの概念


読まなかった側の意見は


・ めんどくさい

・ 知らなかった・気づかなかった

・ 読ませる工夫をすべき


読まなかったことについてと咎められることや裁かれることはないのかもしれないけど、それがさも当たり前のことかのようにふるまうのも変だなーと思うわけで


貼り紙を読まなかった

情報元の「期待」通りに物事は運ばなかった

円滑に物事が進まなかった


この一連のコトに対して責任の所存は一旦無視して、「うまくいかなかった、少なくとも相手の期待通りにはならなかった」ことに対して「SORRY」という気持ちがわくんだけど、世間的にはどうなんだろうか。



SORRYって言葉はすごく使い勝手が良くて僕は好き。


SORRYは謝罪の時にも使われるけど、根底にある意味は自分の非に対して許しを求めるということではなく「残念に思う」が核になる。


だから「車をぶつけて凹んだ」と同僚に話せば「SORRY」と言われるし、「彼女と別れた」と友人から聞いたら「SORRY」と言う。自分に全く関係ない話だけど「そっか、それは悲しいなぁ」って同情する。


日本語で適格な言葉は多分「残念」なんだけど、日常会話ではあまりつかわれない。ただ、その気持ちは多分多くの人の心にある。




貼り紙を読めなかった時SORRYと思えたら


あ、次からは気をつけようと思えたら


貼り紙はもう少し価値のあるものになるのかもしれない。

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