私はコーヒー屋じゃない

いきなり現実を否定しているようだが、私=コーヒー屋か?と考えてみると、それは違うと言いたくなる。
職業がそのまま自分ではないのも大前提だが、そもそも私は何かを作る人、つまり作家でもあると考えている。コーヒーは食品だが作品でもあり、店そのものも私にとっては作品だ。

作ることを仕事にしてみて、そういえば子供の頃から作るのが好きだったと思い出す。さほど手先は器用じゃないが、何かを作り没頭するのが楽しかった。手芸、工作、絵を描いたり文を書いたり。その静かな熱中ぶりだけは際立っていた気がする。しかし作品には他者の評価が伴う。下手だとかプロにはなれないと否定されて私はあっさり作るのをやめた。

子供時代は作文が得意で、感想文はあらすじなど書かずともすらすら原稿用紙を埋められた。成績も悪くなく、授業を聞けば「こう書けば良い点が取れる」となんとなく分かった。小学生の頃は授業態度が悪いと問題児扱いもされたが、中学高校ではまずまず優等生で過ごした。反骨心や大人を批判する気持ちもあったが、わざわざそれを口にしなくなった。気付けばなるべく目立つことを避け、安全な道ばかり選ぶ人間になった。

就職して社会で生き始めたが、どうも世のルールに馴染めない。学校や友人グループのルールと社会のそれは質が違うと感じた。制服の着方や言葉遣いなら合わせられても倫理や正義は譲れない。社会に従うか抗うかの選択を迫られて私はその隙間、なるべく嫌なことはしないで自分なりに生きることにした。自分の好きを探し、生業にすべく模索してコーヒー屋になった。
会社を辞めて何がしたいか考えたとき、日々ものを作り技術を磨く、職人的な生き方がしたいと思った。周りに合わせて見放してきた自分の回復であり、熱中したことを悉く否定された過去への反動でもあった。

今でも私は「これから何を作ろう?」と夢想している。コーヒー屋としての自分は可能性の1つに過ぎない。自分という土壌に様々な栄養や体験を与え、その先にどんな芽が吹くのかと楽しみにしている。


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