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ドストエフスキー『罪と罰』抜粋と感想①

 今日は特に書くことが思いつかないんで、読んだ本の抜粋でもしようかと思います。
 
 『罪と罰』、読んだことありますか?ドストエフスキーという偉大な小説家の書いた偉大な作品です。ぼくの読書体験のなかでベスト3に入る作品です。ドストエフスキーの作品は、登場人物がとても生き生きしていて、本物の人間のようです。よく言われることですが、登場人物がそれ自体で独立してしゃべっているみたいな、そういう臨場感と迫力があります。いや、ぼくのドストエフスキーへの評価なんてどうでもいいですね。だいたい五大長編も全部読んでないんだから、余計なことは言わないに限ります。さっさと本題に入りましょう。

 今回は主にマルメラードフのセリフを見ていきます。マルメラードフは九等官、要するに下級役人といったところです。汚い酒場でラスコーリニコフが飲んでいることろに横から話しかけてきます。

「ただ貧しいというだけなら、人間本来の高潔な感情も持ち続けていられる。ところが、貧乏もどん底になったら、そうはいきません。貧乏のどん底に落ちた人間は、棒で追われるのじゃない、箒でもって人間社会から掃きだされる。つまり、屈辱を思いきり骨身にこたえさせろという寸法ですな。いや、それが道理なんですわ。なぜって、貧乏のどん底に落ちると、私など、まず自分で自分をはずかしめにかかりますからな。」

ドストエフスキー『罪と罰』岩波文庫 p.31

 壮絶な語りです。どん底に至るともはや「棒で追われる」のではないとマルメラードフは言っています。棒で追われるうちはまだ人間として見られている、追いかけてくる人間社会に意識されている感じがします。ところが落ちるとこまで落ちるとどうなるのか。「箒でもって人間社会から掃きだされる」というのはもはや人間として意識されていません。
 落ち葉を掃除するときに落ち葉一つ一つを意識する人はいません。無関心に、その場所をキレイにするために、ササっとするだけ。掃かれる落ち葉の軽いことといったら……。悲しいですが、実感をとらえた見事な比喩です。流石ドストエフスキー。

 「自分で自分をはずかしめにかかりますからな」という文もマルメラードフらしさが出ています。このマルメラードフという人は相当なドMなんですが、それはともかく、この感覚をわかる人は割といるのではないでしょうか。いわゆる自虐ってやつです。自虐も他人に言うくらいならまだいいですが、自分に言い出すとかなりヤバいです。「むしろ行くとこまで行っちまえ!おれはクズだ!」という風に破滅願望と結びついてきます。
 他人に尊敬されないなんて大した話じゃありません。しかし自分を尊敬できない、肯定できないとなると、「自分で自分をはずかしめる」ことになります。これはそういう人間のあり方を鋭く描き出した文章ではないでしょうか。

 短いですがとりあえずここまで。頑張って続けていくつもりです。
 


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