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「推し」という言葉は、しっくりこない。
消火活動
このチラシは可燃物です。
noteをお読みになる聡明な読者様方ならば、個妖怪の感想であり、特定の人物または団体を中傷する目的はないのだ、シーラカンスは争いに来たわけではないのだ、ということは、ここで述べるまでもなくご存知だったでしょうが、一応述べておきました。
「推し」とはなんだろう
僕には、推しがいない。
仮にもVTuberの端くれとして名乗っているのに、推しの一人もいないのだ。
もちろん、好きなコンテンツが皆無、という状況ではない。好ましい特定のキャラや作品は、いくつかある。
唐突だが、「推す」という言葉の意味を確認しよう。
グーグルさんで「推す」と検索すると、真っ先にこれが出てくる。この定義によると、推すことには何かしら力を加えて相手に勧めることが必要となるようだ。
ここで僕の現状に話を戻す。
僕は、先述したような僕にとって好ましいコンテンツを、僕と同じように好いてもらおうと思って布教したり、理解されなかったからといって悲しんだり、好みと明言して大々的に表明したりすることは、ほとんどない。
「だって、好みを勧めるというのは、一種の暴力(押し付け)になり得る、とても危険なことじゃないか」
僕はそう思ってしまうのです。
推しの成り立ち
そんな僕の考えとは裏腹に、VTuberのファンの方は、特に躊躇うこともなく、好きなVTuberのことを「推しのV」と言うようだ。また、ソシャゲなどに登場するキャラクターも「推し」と言われることが多い。
芥川賞受賞作の「推し、燃ゆ」でこの言葉に触れた人も多いだろう。これはアイドル文化の文脈だ。
アイドルはグループを組んでいることが多く、グループの中でも特に一推しのメンバーを指す言葉「推しメン」がさらに縮まり「推し」になった、それが推しの始まりだとされている。あれだけ推しについての議論が熱いpixivの百科事典が出典ともなれば、一般的にこう思われていると考えて間違いはないだろう。
……「推」がゲシュタルト崩壊してきた。
推しはいるもの、というノリ
推しがいないこと自体は困ることではないが、それとは別に困ることがある。
それは、あらゆる人(特に、オタク)には何かしらの推しがある、という雰囲気である。
全ての人の好みを許容し、存在を認めることは大変寛容で素晴らしい。しかし、特に推しに該当するものがない場合はどうなるだろう。
それもまた可能性として念頭に置かれると良いと思う。
「推しを探している」という表現は散見される。だが、わざわざ「推しは探していません」「推しは必要ありません」と書く人は、滅多にいないだろう。
確かに僕はゲームの中で好きなキャラを特に育成したり、フレンド枠として提供したりということは行う。しかしそういうことをしているからといって、そのキャラを推している、推しであるとは限らないこともある。例えその感情が、好ましいというベクトルであっても。
誰かに何かを勧めることの暴力性
推しを誰かに勧めることに、どれだけの強制力があるだろうか。
実際は全くないだろう。勧められたコンテンツに触れるかどうかは、最終的には勧められた人に委ねられる。
しかし推しというものへの感情は強い。それこそ自由に話していいとでも言ったら、餓死寸前まで話すことだってできる人もいるだろう。
必然的に、推しを勧めるときは、他のものを勧めるときよりも熱意に溢れる。その結果、脅迫的にもなる。熱意に負けて予測できていた苦手に突っ込んでしまい、大火傷をした人もいるのではなかろうか。
このようなことは、なるべく起きてほしくないし、起こしたくない、僕はそう思っているからこそ、好きなことを喋りすぎないよう、気を配る。話すときも「見なくてもいいどころか全く構わないが」「早く忘れてくれ」などと言っておきたいとさえ、思う。
僕にとっての「推し」とは
一通り僕の中の色々な思考を書き散らしてきて、もう一度考えてみた。
今のところ、それなりに多くのものに触れてきたが、まだ「推し」と呼べるものには、出会っていない。
出会う必要はなく、避ける必要もない。
座学では分かっていても、実技は未経験、そんな物事の一つだろう。
もしかしたら
今までの僕の話を聞いて「それって推しじゃないか!」と思われた方がいるかもしれない。大変結構。あなたがそう思ったことを僕は最大限大切にするだろう。
ただ、僕にとって、彼らやそれらへの感情は「推し」ではない、別の言葉で表されるものだった。それだけのことなのだから。
もう一枚のチラ裏
実はこのチラ裏を書く前に、別の場所で思ったことを思いつくまま大量に書いたのだが、そのときはもっと攻撃的な論であった。だが、僕自身がある程度の整理をして、感情的な要素を排した結果、耐火性のチラシになってしまったように思える。
僕の技量不足で、他ならぬ僕自身が不完全燃焼しているのだが、このチラシにガソリンをかけてしまう前に、紙飛行機にして飛ばしてしまうのが得策かなと思う。
もし長いこと異常なまでの耐火性を誇っていたら、もう一枚チラシを飛ばすこともあるかもしれない。
画像は悩んだ挙句、オシドリにしました。
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