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やっと見つけた自己流健康法

ずっとずっと探していた頭痛からの脱却法。やっと見つけた。それは、頭痛になりそうになったら身体の力を抜いて血流が良くなるイメージをすること。近所にいる人の影響を受けているなと思ったら遮断するイメージをすること。ひとりになれる場所に移動すること。すると、治るんだよね。頭痛が。。これは、数々の本を読み漁って到達した自己流の健康法。


元となる本は「「今ここ」神経系エクササイズ」 浅井咲子著、「腰痛は怒りである」 長谷川淳史著、「敏感すぎて困っている自分の対処法」 苑田純子著


これらの本に共通する理論がある。つまり、身体に備わっている防衛反応が過剰に働いているので、それを、緩和する必要があるということ。で、過剰に働いている理由はまあいわゆる幼少時からのトラウマですな。で、よくある心理学的手法ではここを深堀するが、その必要は全くない。単に周囲の危険に対して身体が緊張することが癖になっているだけなので、「今は安全だから脱力しよう」と思うだけでオッケー。


もちろん、「腰痛は怒りである」方式で同時に怒りの原因を探すことをするのも効果大。ただし、私は体の痛みは怒りを抑圧するためにあるとは思っていないので、この本にあるように「痛みを叱る」といった手法は取らない。

ここをもう少し詳しく説明すると、心と頭と身体、3つが連動して私という人間を形作っているが、まず頭の部分はかなり周囲の環境の影響を受けていると感じている。いわゆる常識や世間体みたいなものだ。悪い言葉でいえば周囲に洗脳されやすい領域。一方心は例えばこの場合怒りを感じているが、世間に影響されて感じられなくなっている頭の影響を受けている可能性があるのでここの霧を晴らすのは大切。心に大手を振って歩いてもらいたい。そしてうまくいえないのだが、更には身体が私の本質だと思っている。身体は頭や心が周囲に汚染されて本心を表わせなくなっているときに最後の手段として病気に訴えるということをしているような気がしてならない。だから、私という人間は社会に適用しようとして一生懸命頭を使っているのだけれども、行き過ぎると身体が、それは私の行きたい方向じゃないよと止めてくれるようにいつも感じているのだ。


更に話がずれるが、色々な物事を決めるとき、いつも本心はなんだろうと思い悩むのだが、本当は答えは最初から決まっているように感じる。私という人間の細胞が決めているような気がする。最初から。。。でも、世間体とか常識とかそういうものに影響されて混乱しているように思うのだ。だからよくいわれるように直観が一番正しいのかもしれない。。

ちょっとおかしな例だけれども、あるセミナーに通っていたのだが成果が出ないときに、多分自分に向いていなかったのだと思うのだが、それでも続けようとしていたある日、なぜかセミナー料金の振り込みがうまくいっていなくて、そのことを指摘されたとき、あ、身体が止めているかもと思ったのだ。無意識のうちに。やりたくなくて無意識のうちに振り込みを失敗したのかもと。。


話を戻すと、例えば心が怒りを感じていることを頭が感じ取れなくなっているときは、(このあたりの参考文献は「普通がいいという病」泉谷閑示著)やっぱり、それを感じるように努力することは大事で、「痛みを叱る」というよりは、痛みに至ってしまったロジックを紐解いていく意味で怒りの原因を探すということは大事かもしれないと思う。


これを読んで下さっている方にどこまで通じているのかわからないが、つらつらと書いてみた。


そういえば、昨日見たテレビ番組での養老孟子さんの言葉だが、虫を捕るときは虫を取ろうとやっきになると虫が見えないが、自然の木立の中で、力を抜いてぼーっとして「無心」になると虫が見えると。。それと似ているかもしれない。すごく、似ているかもしれないと感じた。


珈琲断ちをしたり、耳のマッサージをしたり、頭を冷やしたり、肩を温めたり、数々の方法を試して最後にたどり着いた解。他の方に当てはまるかはわからないが、偏頭痛に悩む方に少しでも参考になれば幸いである。



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