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数十年の時を超えて届くことってあるのね


映画は諦めた

私はそのために起きて準備してたのに、
遅く起きた娘が傍若無人に私が沸かしたお湯を水筒に入れるわ、次のやかんにはお水並々入れてるから沸かないわ、そして先に出かけていくのだ

本当に本当に瑣末なことだけど
そのことを言ったら
「お互い様やん」と言う

まぁ私が先に出て洗濯干すの頼むことなど、
そういうこともあるけれど
それは娘が午後から出かけるとか時間にゆとりがある時だし
その分他のことをしてから行ってたりするし
同じとは言い難い

そりゃどこかを取ればどこからかお互い様は出てくるよ
一緒に暮らしてればさ
そりゃそうよ
だから言わないでいることだってたくさんあります
でもその言葉で片付けてばかりでは
また繰り返す

なので今回はちゃんとそれを伝えた

(まぁちゃんとではなく
恨みがましくかもしれない)

憮然とはしながらも一応謝ってくれたので
話題を猫に切り替えて明るく送り出す

猫の効能はこういうところにもある
猫はかすがいとはよく言ったものだ

さて、そんなこんなで映画の時間には間に合わない感じになったので残念だがひとまず諦めた

まだ間に合うか⁈と言う時に実母から電話があったのもある

一度は無視もしてみたが
そうこうしてるうち時間的に慌ただし過ぎて焦るのも嫌だからやめることを選んだのだ

母に電話し直す

うちの猫カレンダーが届いて喜んでる電話だった

その後、
「あんた演劇甲子園とか言うの知ってる?」と話す

娘も高校時代演劇をやっていたので一応は知ってる
が、顧問はどんなに彼女が企画書を出したり顧問の出すハードルクリアしても出させることはなかった
苦い思い出が伴う

その後母はこんなことを話した

そのドキュメンタリー番組を観ていたのであろう

そこに起立性調整障害の子が出ていてその子がその身体が思うようにならない大変さ、
周りの無理解に苦しみ
そのことをノートにしたためていたものを友人がその文才を認め
演劇にし映画にしようと
クラウドファンディングを立ち上げ
作った映画がグランプリを獲ったという

娘の起立性調整障害時代がよぎる
不登校時代
そして、大学に行ったら不登校の子たちと演劇という場を作るサークルを立ち上げるつもりで仲間も作っていたがコロナ禍で大学にもいけない日々で頓挫した

今も起立性調整障害はちゃんと診てくれる病院が少ないのだろうか
あの頃8年ほど前でも大阪で2.3しか無かった

母も娘のことがよぎったのだろうと話を聞いていたら

「お母さん、あんたのこと思い出してさ。あんたも小学生や中学生の時、どうしても朝動けなくてぼーっとしてたり夜眠れなかったりしてたのを、わかってあげれなくて早くしろ怠けてるなと追い立ててたって反省してさ」

などと言うではないか

胸の奥がギュッとなった

「その子も死にたくなるほどだったそうだし、理解されなくて苦しんで…

お母さん調べることもなく
あんたを怒ってたよね…

演劇っていうのでナノコのことも頭に浮かんでさ」

と言う

せっかくだからちゃんと恨み言を言おうと思う

「まぁそうだよね
怒られてたよねぇ
今でも専門の病院は少ないし、あの頃は知られてもない症状だからしょうがなかったとは思うけど、
毎日怒られるしわかってもらえないし、しんどかったわ」と話した

起立性調整障害なんて概念の無かった時代だもの

今だって無理解に苦しんでる子がたくさんいるだろう

私だって当初そうだった
すぐに理解してあげることはできなかった
自分も同じことがあったのでうっすら理解しつつも、他の原因もあるのではないか、何か見つけなきゃいけない事象が隠されているのではないかと思ったものだ

検査出来る病院でちゃんと数値化された脳貧血状態を見て
ちゃんとそう思ってあげられて
安心したことを思い出す

それはさておき

数十年の時を超えて
母がそこに想いを寄せて
言葉にしてくれた事が驚きだった

ごめんね、とかはないけど
反省した、ってね

私が義母の認知症の憎悪で苦しんでた時も心を寄せてはくれなかった母だったが、
今、父が認知症状が出てきて母自体が体験してようやく私のあの頃のことも思い返してくれたりもするようだ

こんな事があるなら
映画諦めた意味も出来たね

映画はまた行こう

#コデマリ徒然日記

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