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犀の角・第二夜 「有/無」 :前夜

 結局のところ、私たちは単に言葉をやりとりしているのであって、意味などやりとりしていない。

 例えば、目を閉じて自分というものをイメージしてみる。それを言い表そうとすれば、さまざまな言葉になるだろう。何の仕事をしている。どんな家族構成である。好きなことは何で、苦手なものは何か。そういった、自分の言葉による自分のありさま。
 一方、他者からみた自分、他者の言い表す自分というものがある。おおよその年齢や、性別、服装の趣味や髪型から醸しだされる雰囲気など。
自分というもの、その境界を決定するものは、この内外二方向からの言葉の接地面であって、いずれか一方ではない。このとき、言葉の意味はあってないようなもので、二方向からの作用反作用の結果について、各自が了解することは不可能だ。わかるのは、あくまで自分の言葉の意味するところ(自分が分かっていると認識する範囲において)、自分の意図であって、相手の意図を汲む努力を当然にしているつもりでも、それが正解であるか否かには、答え合わせの方法がない。観測できないのだから、永遠に謎だ。

 そんな調子で、言葉は重なりあいながら世界を水平に覆い尽くし、自分が言い表すことのできる範囲で陣地の取り合いのようなことをしている。

 対して、命は水平な点だ。点には、面積がない。徹頭徹尾、互いに触れ合うことのない、無関係な点。

 そんなことを言っていると「人それぞれだもんね」と言われる。そう。人それぞれだ。だから、私は喋っているし、これを読んでいる人も、だから読んでいるのだろう。みんな違ってみんないい。
 問題は、ここから。なぜ、「人それぞれ」、「みんな違ってみんないい」なのか。そもそも、その「人」とか「みんな」とかは、何を指しているのか。また、自分にとって、この世のわかることのすべてである「自分」と、どう違うのか。そういう意味で自他の境界とは何なのか。これらの問いはすべて「有」にあふれているが、それは一体何なのか。

 ハイデガーは「無」というものが「どういうもので有るか」という問い自体が破綻しているといった。龍樹菩薩は、有るとかその反対の無いとか、あっちとこっちとか、そういう二元論での議論がそもそも違うといった。

 仏教は、徹底した転迷開悟を教える。私は死ぬまで悟ることはないが、結局のところ、迷いなくして、考えることなくして、命をまっとうすることができない。私にとっては。

 おつきあいくださる方に、心からの感謝を。


精進します……! 合掌。礼拝。ライフ・ゴーズ・オン。