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図書No.001: PS No.44 (DECEMBER 2005) 椎名林檎 ー 大人なシンプル ー

 今からちょうど15年前、私が二十歳だった時のファッション雑誌『PS』12月号。椎名林檎さんが東京事変の2ndアルバム発売直前に、表紙と見開き2ページにわたって登場している。「大人」とは何か。アルバムタイトルに因んだこの問に、ファッション雑誌上で「まず生活のメインに服のことを考えるのはなくなる」と答えた彼女は当時27歳だった。

 15年という年月とファッションの移り変わりについて、ぼんやりと考えてみる。仮に、15歳の自分が15年前を振り返るという設定だとすると、世は昭和で、バブルも微妙にはじける前で、写真やTVで観る当時のファッションは恐ろしく前時代的に感じられた。今はどうだろうか。平成は令和になったが、15年前のファッション雑誌を捲って「明らかに今じゃない」とか「なんか懐かしい」という感覚は色濃いものの、15歳の15年前のように「昔の服はダサい」とは感じない。これが老いによるものだとすると結構怖い。単に私がその世界に明るくないからだと信じたい。でも実際は、ありとあらゆるものが多様化した結果、ファッションの流行も一方通行の一本道ではなくなって、色んな服装の人がごく自然に多数存在しているということなのだろうか。

 椎名林檎インタビューの続きには、大人は目に見えないところでアイデンティティを確立した上で、そこに被せるものとして服を纏うのでは、というようなことが書いてある。なんて見事な回答なのだろう。正にその通りだ。私が洋服に使うお金が東京に住んでいた頃と比較しておよそ1/10程度になっているのは、決して、当時のように毎日気張って行くところが無いとか、そもそも身に着けるものを買う場所が近所に無いとか、そういえば個人としての収入は随分減っているから服買ってる場合じゃ無いとか、そういう理由だけではない。洋服にアイデンティティを委ねる割合が、1/10程度になっいる。きっとそういうことだ。私はより大人になっているのだ(35歳)!

 ところで二十歳の頃から持っている洋服が今でも何かあるだろうか、と頭の中でクローゼットを開いてみる。思いつくまでに5秒ほどかかったが、ひとつあった。Giesswein(ギースヴァイン)というオーストリアのブランドの、ポンチョ型コートだ。いつからあるのか正確には思い出せない。下手をすれば高校生の頃からあるのかもしれない。値段も覚えていないが、2〜3万円だったと思う。岡山駅の地下街で、母にねだって買ってもらったものだ(私は岡山出身です)。膝上丈で、ムラのあるグレーベージュ、フードの縁にはシープボア風味のポコポコしたラインが施してある。欲しくて欲しくて頼み込んでようやく買ってもらったように思うその服は、しかしながら10年以上の間ほとんど着られることなく、ずっとクローゼットに押し込められていた。20代の頃は全然上手く着こなすことができず、どうやっても上着に着られているようにしかならなかったからだ。

 二十歳の自分のメンタリティのようなものを、胸の奥のどこかあるような無いような場所からじんわりと取り出してみる。田舎から出てきた大阪の学生で、目に映る人みんながキラキラしたキャンパスライフを送っているように見えたがいっこうに馴染めず、自分という異物感に浸って構えは常に斜めだった。知らない人のことが嫌いで、私を好きな人が好きだった(それは今もか)。手持ち無沙汰で煙草ばかり吸っていた。自分は誰とも違うと感じていて没個性的な流行の洋服に興味はなく、ファッション雑誌を立ち読みすることもなく、アメ村で買った古着なんかでとにかく誰とも似ていない格好でいることに躍起になっていた(そしてそれは全然お洒落ではなかった)。良くいる感じの痛い大学生だ。にも関わらずファッション雑誌の代表格とも言える『PS』を購入したのは椎名林檎の特集ページがあったからで、東京事変は当時のバンドキッズにとって現在進行形のヒーローみたいなものだった(個人の主観です)。自分というものを洋服においても目一杯示そうとしていた当時の自分が、一体どんな風にこの記事を読んだのか、今となってはもう思い出せない。

 15年の間に、6回引越しをした。その度に、いやその間にも、断捨離的なノリで持ち物を処分し、本の類もその都度例外なく捨ててきた。この『PS』が未だに手元にあるのは、何故だろう。東京事変の件のアルバム「大人」は当時擦り切れるほど聴いたし、何曲かはその後学祭に向けて組んだコピーバンドで演奏したりもした。けれども会社員として社会に出てからは、東京事変や椎名林檎の音楽を一生懸命聴いた覚えはない。かつての憧憬は青春の記憶の一部となって、それ以上でも以下でもない重さで自分の中のあるような無いような場所に沈殿していった。そしてこの度、本棚の移動に伴う片付けというご縁によって見つかった雑誌の記事は、新しい軽さでもって浮かび上がり、さらりと今の自分を照らし出してくれたように思う。

 Giessweinのコートは、10年以上の年月を経て箪笥の肥しを卒業し、初冬に活躍してくれる一着というポジションを得ている。ファッションを通して自分で自分に自分を示す必要がなくなってようやく、個性が強過ぎて着られなかった洋服を自然に着られるようになった。これを成長と呼ぶかはさておき、自分が誰かということの本質は、その上を覆う物に見つけることはできないとしみじみ実感させられた。取り立てて大したことのないただの自分が今ここに生きていて、なんだかありがたや、とお茶を啜りながら15年前の雑誌を閉じることができる。知らぬ間に、単なる自分が一体誰か、受け入れて暮らしていたらしい。

精進します……! 合掌。礼拝。ライフ・ゴーズ・オン。