cohonをめぐる幾つかのお話

cohonをめぐる幾つかの物語

歌舞伎町にある大久保公園。そのゲートが閉じたあと、ひっそりと現れる珈琲と絵本の店、cohon。
cohonの周りでは、共通点はないがどこか不思議な夜の住人たちが集まり、珈琲を飲みながら他愛もないおしゃべりを楽しむ。
痩せ型で温和(に見える)店主は、そんな様子を見ながら珈琲を淹れ、たまに話に入ったりする。


1.アクアリウム

大久保公園を回遊魚のように左回りに回って、ガードレールに腰掛ける女性に声をかける男たち。
週末は賑わうが、たまに警察に声をかけられて摘発されると少しだけ静寂を取り戻す。
ニュースになることもあり、そんな時は一見さんが興味本位で、こんな歌舞伎町の外れまで足を運ぶ。

「今日は出涸らしだな」

一際大きな通る声で、彼は珈琲屋に話しかける。
どっちが出涸らしだよ、と心の中で彼はつぶやくが、お構いなしに彼は続ける。
もう何年も、彼はここに通い続ける。何があったのかは知らないが、もう我々が出会った時にはここにいたのだから、まあ常連ということだ。

この公園はある意味セーフティーネットだ。
こういう言い方は不謹慎かもしれないが、男が金を払い女性がサービスをすることで、彼女たちは助けられる。生活が苦しいかどうかとか、倫理的に良くないとか、そういうものの外にあるものが確かに存在する。

彼らも彼女らも、たまに珈琲屋に立ち寄る常連だ。その時には皆cohonという場所に立ち寄る回遊魚、そして大久保公園はアクアリウムになる。
寒い時には特に、暖かい淹れたての珈琲はありがたい。500円のダークローストは、カイロのように手元を暖めてくれる。

「ちんちん乾く暇ねーよ、今日は」

お前、それは古のモテる男のセリフだ、お金で解決してる奴のセリフじゃねーよ。
どこか失笑しながらも、彼は心の中で突っ込みながら今日も珈琲を出す。
何度か警察に職質されたりしながらも今日は無事だけど、そのうちやらかさないと良いけど、などと不思議に心配してみたりもする。
実際、しばらく顔を出さないと、他の常連たちもからかい半分で心配してしまうのだ。

それは、日常からちょっとだけ外れた、アクアリウムの片隅の物語、今日も回遊する魚たちの話。


2.はんぶんこ

珈琲屋にも裏メニューがある。ダークとココアを混ぜてカフェモカ。
作る都合上、飲みたい人がふたりいないとできない。
もちろん、冬の間にしかメニューにないココアがないと作れない。

路上で珈琲を作る時、まずはカセットコンロで必要な量のお湯を沸かし、85°Cの温度で少しづつ淹れていく。同じメニューが続くときは2杯づつ作ったりもする。
だから、注文を受けて珈琲を出すまでの間に5分から10分ぐらいはかかるのだ。
間違っても、ドトールのようなスピードで珈琲が出ないからといって、石を投げてはいけない。無知を晒すだけだから。

話を戻そう。
ある時ダークコーヒーとココアを混ぜてカフェモカになることを発見した偉人がいた。
さすが幅広い知識を持つ常連たち、欲しいものと可能なものを見事に融合させて欲望を満たしていくのだ。恐るべし歌舞伎町。
仲良くふたりでカフェモカを頼む姿がキュートな常連を見るたびに、私たちは羨望の眼差しを向けて、自分達でも相方を探して注文してしまうのだ。

全ての生物が二つの親から子ができるわけではないのだが、哺乳類である私たちはつい考えてしまう。はんぶんこで私たちはできていて、残りのはんぶんこを探してたりするのだろう。
神様が僕らをつがいで飼おうとして、もしかしたらカフェモカを我々に与えたのかもしれない。

そんな妄想をしてたら、冬空に雪がちらついてきた。
きっと3°Cぐらい、靴底から冷える歌舞伎町の1月の夜中1時ごろ。

今日もあの人は来るだろうか...。


3.境界

cohonは路上営業しているが、キッチンの内と外の概念はある。
彼の小さなキッチンは、向かって左側のガードレールの延長線に設置され、そこが内と外の境界になる。
時には常連がガードレールに座って珈琲を飲みながら歓談する。
また或る時は、酔っ払いが彼の後ろを頑なに通行したりもするが、我々はそれを多少苦々しく思いながら見ている。

そして、時には珈琲を飲んでいる女性に対して失礼な言動を繰り返す、セクハラなオッサンや回遊魚たちが現れると、店主はその境界を超えて叱りつけるのだ。
相手は少し驚いた表情で、大体はその場を離れていく。

路上といっても、長く続けると暗黙の了解で常連には店の形が朧げに見えている。


4.ポチ袋

今日は違法営業最終日の前日。
5万円でビールサーバーも借りたし、きっと今日は楽しい日になる。
そして、遅かれ早かれ、通報されて強制終了するだろう。

今まで来てくれたいろんな顔ぶれが見える。
やっぱりさ、常連には感謝したいじゃないか。
お気持ちを後で封筒に包んでおくれ、わかってるよな君たち?

世代も違う、性的嗜好も違う、珈琲だけが接点の人たち。
お前らが盛り上がるなら、縛られもするぜ。だから、信じてるぜポチ袋の中身。

なんて思ってたら、12時過ぎて通報を受けた交番の若者がやってきた。
わかってるよ、お前が次に何を言うのかが。この3年間、俺は時々聞いてきたはずだ。

「通報きたんですいません、片付けてもらえますか?」

もちろんさ。俺は国家権力の犬。答えはYesかハイしかないぜ。
常連のみんな、黙って従え。アウトローはカッコ悪いぜ。違法だけど。

片付け終わった俺たちは、なぜか残った常連でパセラ。
おい、帰ったやつよ、俺はお前らのことも忘れないぜ。
そして、まだ今日の夜に最後の営業かよ...。

5.メッセージ

2062年5月22日。
毎年、彼は5月22日になると、あのことを思い出さずにはいられなかった。

振り返ると、歌舞伎町での最後の営業日22日は雨でそのまま営業せずに群馬へと帰ってきた。
もう何十年も心に引っかかった棘のようなもので、80目前の彼は何かの拍子にふと思い出してしまう。
あれから40年近く経って、自由に行き来することはできないが、過去にメッセージを送るサービスが実用化して久しい。
珈琲屋を始めてから、群馬発珈琲屋ブームの中で30年かけてcohonは世界規模に。シアトルのコーヒーショップもなしえなかった、世界中全ての国への出展も果たした。
莫大な財を成した今、高額なサービスであっても造作もない。

「やってみよう」

思い立った彼は、てるてる坊主型のロボットを地元企業に発注した。
タイムスリップした後に、大久保公園のゲート横に引っかかるような単純なもので良い。
ただし、未来から来たようなあからさまな姿は色々な意味で避けなければならない。
なんとしても、最終営業日は29日の晴天にしなければならない。
たとえ、そのことで未来の財産がなくなったとしても、そんなことは小さなことだ。

90億円を費やして、とうとう過去へと使者を送る準備ができた。
一度宇宙に打ち上げて、光のドップラー効果で40年の時を遡るのだ。
胸に熱い思いと、さまざまな顔が浮かぶ。
こんどこそ、最終営業日に営業してやる。

そして、時を遡る。
てるてる坊主は、2022年5月17日に目標の大久保公園にたどり着いた。

今週で営業を終了し、群馬へと移動しようとしていた火曜日の夜。
ふと珈琲屋の右後ろに目をやると、昨日まではそこになかったてるてる坊主が大久保公園の柱にくくりつけられていた。
どことなく不気味で、何かもの言いたげな存在感。

「昨日のアンチョビといい、今日のこれといい、一体なんでしょうね?」

常連が少しざわつきながら、てるてる坊主を見つめる。近づいて触る。
しかし、誰もこのてるてる坊主を下ろそうとは思わなかった。
あまりに不気味だったから、たぶんそれだけの理由で。

珈琲屋は、明後日の緊縛に思いを馳せながら、いつものように珈琲を注ぐ。
しかし、彼の脳裏にも一つの考えが浮かんでいた。もしや…

木曜日、彼の緊縛姿は見るものすべての心を鷲掴みにした。
となりには、先週現れたアンチョビ。アンチョビも同じように緊縛されている。
同志の心強さなのか、彼は少し紅潮していたが、頭の片隅でてるてる坊主のこと考えていた。
もしかしたら何者かのメッセージなのか、今週末に最終営業してはいけないのではないかと思い始めていた。
もちろん、天気予報を見たら綱渡りだと思ったのだけども、それだけではない何かを感じていた。

「最終営業は来週に延期します。」

彼の決断は、力強く未来を変えた。
どのみち、彼の未来は彼が築くものだから、どうなろうと進むだけだ。

無事、晴れて迎えた最終営業日の最後の最後、朝日の中で写真を撮りツイートする。

「さようなら」

ふと見上げると、てるてる坊主は笑っているように見えた。


6.2046

そろそろ梅雨の季節。群馬で彼はあの時のことを思い出す。
そして、今日も近所の井戸端会議が行われる店内で、静かに珈琲を淹れている。
屋根も壁もある。キッチンはもちろん備え付け、ガスの火力や風を気にしなくても営業できる。

「いらっしゃいませ」

かつて歌舞伎町で出会った彼らは、たまに群馬まで足を運ぶ。
お互い随分歳を取ったが、そんなに悪い気はしないし、みんな相変わらずだ。
確かに、たまに知り合いの訃報を聞くことが増えたり、政界情勢はあの頃からさらに物騒なきな臭い状況にある。
それでも、珈琲を飲みながら雑談に耽る大人たちは、結局学校の放課後のようだ。
それもこれも、彼がcohonを始めなければ見なかった風景なのかもしれない。

すっかりロマンスグレーの紳士になったマスターの、ほんの少しの思い出話。
前橋は、今日は曇り、降水確率30%、もちろん営業中だ。

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