愚童の話、たまには

むかーし、こういうバンドをやっていた。パンクバンドだ。

https://www.discogs.com/ja/release/11185133-愚童-愚童

元々夜中に車で遠出したりする友達だった猿に誘われて、ドラムを叩きにスタジオに入ったのが最初だ。たぶんだけど、夜中に急に部屋に押しかけたあげく、私が踊りながら舘ひろしの「いとしのマックス」を熱唱したから誘われたんだと思う。
その時、あいつの部屋に油絵があって、絵が上手いなと思ったら、デザイナーだった。しかも元々少女漫画家になりたかったらしく、本名でりぼんに漫画が載ったことがあるぐらいなのだ。魔夜峰央好きな俺とそりゃー仲良くなるわけだ。

AKIはすごく男前の松たか子似のベーシストで、重心が低くてとてもカッコよかった。あんなにプレベが似合って、名古屋のみならずハードコアパンクの方々の信頼を勝ち得ていた人も彼女ぐらいだ。

最初ボーカルがいなかったので、メンバー募集のビラをはったりしたものだ。
初代のりのちゃんは、ほんの短い間だったけどかなりハードコアな存在だった。
最初は、猿とAKIがかつてやっていた「ちえおくれ」というバンドのレパートリーの、「女子中学生」と「ブスハ死ネ」(これはさらに前に猿がギターを弾いていた「大日本意識革命軍狂暴」(さらにその前身の「Crazy Sex Machine」)の曲)をやってた。

その後、同じ大学だった永唱くんにお願いして入ってもらった。
彼は加入時は高校の国語の教員を非常勤でやっていたので、そのミスマッチさもパンクだなーと勝手に思ってた。
そして、彼が大学ノートにずっと書き留めてきた歌詞を、私と猿とでピックアップして、それぞれ曲を書いた。
猿は結構マメにアレンジする人で、タブ譜とはいえギターとドラムを譜面に書いていくという、意外と古風な感じだったが、自分もクラシックの人なので話がしやすかった。速いハードコアな曲を猿が書いたので、自分はバンドのアンセムになるように「革命」という曲を書いた。元の永唱の歌詞は「革命行動」という諦めた視点の内容だったけど、歌詞に手を加えてポジティブ全開の曲にした。全然そうはならなかったが、作曲するときに思ったイメージはHOUND DOGの「ff」だった。拳を突き上げて会場をひとつにしたかったからだ。

なんだかんだ仲良しだったけど、活動を続けていくうちに永唱の歌唱力に限界を感じた私は、悩んでた時にばったり秀児に会った。
カルビ弁当を買って、当時の名古屋ミュージックファームの2階のロビーらしきところで会ったのが最初のはずだ。
そこで、彼が元カリガリのボーカルで、本当にパンクがやりたいんだ、みたいなことを聞いたんだと思う。歳は一個上だけど、丁寧で穏やかに話す人だなと思った。
当時まだピンク菩薩をやっていて、どうやって彼を愚童に入れるか、そのためにはどうやってメンバーを説得するかが課題だった。AKIはそんなに反対しなかったと思う。
たぶん百足になるころだろうか、ドラム叩かない?と言われたのか誰かいない?と言われたかは忘れたが、そんなことがあって、このタイミングで猿と秀児をより仲良くさせて、愚童に入れようと思った。
なんとなく私と猿と秀児が遊ぶようになったとき、猿に百足でドラム叩くように勧めて、半年か一年かやってたと思う。

結局、2003年の終わりぐらいに、秀児が加入してCDを作ることになった。
(ちなみに、売上はプラスで終わったが、まだメンバーの手元には何枚かあると思うので、欲しい人がいれば元メンバーに聞いてみれば買えるかもしれない)

まずオケを2、3日で作り上げ、仕事の移動中の新幹線の中でiBookG4+Logicで仮ミックスを作った。楽器陣は、録音開始してせーので演奏、ギターソロとかコーラスをオーバーダブみたいな感じだった。愚童はみんな演奏は上手かったから、案外時間はかからなかった。
歌入れは秀児と二人でスタジオに入って各々祈りながら頑張ったのを覚えている。
歌入れしながら、歌じゃないところに入る声とか、そういうのが独特だけどなんかいいなーと思って、特に「革命」はやっと思ったような出来になった。CDの「よっしゃー!」ってセリフは、やりきってふってきたんだと思う。
マスタリングして、台湾のCDプレス工場とやりとりして、もちろんデザインは猿のセンスでやってもらって、なんか楽しかったんだよね。

CD発売したのは2004年だったそうな。もうこの辺の数字は覚えていない。
CD出して、ツアーして、夏が過ぎたころにAKIが脱退したいと言った。この時点で、俺自身はもう愚童のピークは終わったと感じた。愚童と名付けたのは彼女だったようだし、俺らの中でもっともパンクだったのも彼女だ。俺も密かに辞めることを心に決めた。

その年の12月のファームのライブの映像がこれ。


そしてその後の鶴舞DayTripでAKIは愚童を辞めた。
終わった後、楽屋で泣いてた俺を何故か四日市ぜんそくのコージーさんが慰めてたのがちょっと面白くもあった。あんまり感情がない人だと思われてたのかもしれない。

で、年が明けたら自分で東名阪ブッキングして最後の挨拶に回って、自分の中の愚童は八王子で終わって、メンバーを見送ったのよね。

どっかにまとめないと忘れると思ったんで、だらだら書いてるけど、これは私の視点からの話で、本当はどう思ってたのか、みんなで今更集まって話したら、てんでばらばらなのかもしれない。

そして、当時一緒にライブやったり、遊んだりしたみんな、どうしてるんだろうと思ったりして。当時好きだったバンド(解散してるものも含めて)の方々は元気だろうか?

付録、当時好きだった対バンしたことあるバンド
・THE MAD DOGS(一番一緒にライブやったんじゃない?一曲ライブでギター弾いたこともあったな)
・4B-UNION(大阪に住んでたら加入したいぐらい好きだった)
・四日市ぜんそく(何年か前に久しぶりに東京で見たけど、相変わらずでなんか安心した)
・桜桃(女性のハードコアトリオ、すごく曲が好きだった)
・ANOYO(江戸川区出身のボーカル、ドラムと足立区出身のギターとベース、あの時新宿ロフトに出てたバンドはきっとみんな好きだったと思う)

あー、今すぐに全部は思い出せない!!!!(気が向いたら追記)

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