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象が葬儀をする?動物が死を悲しむメカニズムと経葬儀による回向の重要性(執着の存在を否定するために自分の善徳を供えるために経葬)


象は葬儀を行う?


ゾウ象は埋葬や葬儀を行う動物である。ゾウが死んだ仲間に対して葬儀のような行動をとるのは、ゾウが身近に存在する国の人にとってはよく知られたことだという。アフリカゾウは亡くなった親族のあごの骨を持ち歩き、頭を下げ、鼻を地面に付けたままほぼ動かずに死体の近くに集まって長時間沈黙することが知られています。またアジアゾウは遺体を枝や木、葉などを集めて埋葬するような行動を見せており、ゾウ研究家のサンジータ・ポカレル氏は「死体の周りを飾ったり、歩き回ったりする行動は、まさに宗教文化で行われる葬儀を思い出させます」と語っています。

ポカレル氏は仲間の死を悼むようなゾウの行動を見て、「人間として、ゾウの行動にはある種の悲しみがはっきりと見えます。しかし、それを悲しみと呼んでいいのかはわかりません」と話しています。動物がどのような状況を経験しているのかについては決定的な科学的証拠が不足しているため、「一概に『悲しみ』と表現してしまうと、動物を擬人化してしまうようなものです」と研究の難しさをポカレル氏は語っています。

同類を埋葬することは人間特有の行動と思われがちだ。チンパンジーやゴリラなど、一部の霊長類は死を理解して悲しむことも分かっているが、死んだ仲間を埋葬したりはしないという。

ゾウのように、人間以外にも埋葬に近いような行動をとる動物が存在する。多くの動物にとって、穴を掘ってからその穴を埋めるのは難しい。それでも、体に草や砂をかけるなど埋葬に近い行動をとるのだ。

死んだ仲間の体を鼻でなでるなどの行動をとることが多く、知らないゾウの死体を見つけたとしても全く同じ行動を取ることもある。ゾウには群れの仲間ではなくても、同じゾウの死を悼む気持ちがあるようだ。

ゾウは死んだ仲間の体に草や砂をかけるだけでない。死骸の一部を運び、別の場所に埋めるという。大きなゾウの体をそのまま運ぶのは無理であるようだが、埋葬を行っているのである。


アフリカのサバンナには、死んだゾウの骸が集まったゾウの墓場が存在するという伝説がある。象牙目当ての密猟者が、ゾウの牙が大量にあるゾウの墓場を見つけるという映画のシーンも存在する。

死期を悟ったゾウが自力で移動するのだとしたらあり得ない話ではないだろう。ただし、ゾウの墓場は存在しないというのが定説だ。ゾウの墓場があるという伝説は、ゾウの死体が発見されにくいことから生まれたと考えられている。

実際にゾウの死体が発見されない理由は、死んでしまうとライオンやハゲタカなどによってすぐに食べられてしまうからだ。骨だけになったゾウの死骸が発見されることは珍しくない。

ただ、ゾウは仲間の骨を埋めることはたしかなようなので、そのことからゾウの墓場の伝説が生まれたのかもしれない。


動物は仲間の死を悲しむのか


動物が親類や仲間の死で深く悲しんだり精神的に沈んだりするという考えは、長らく非科学的な問題として無視されてきましたが、動物研究者からはさまざまな事例が報告されています。1972年にタンザニアの熱帯雨林の奥深くに住むフローと呼ばれていた年老いたチンパンジーが亡くなった後、息子のフリントは突然無気力になり、食欲もなくなり、群れから孤立していったことが報告されています。当時、動物行動学者のジェーン・グドール氏はサンデー・タイムズに、「母親への深い愛情を抱いていたフリントは、母親の死後めったに食事をとらなくなり、3週間程経過するころには体重が3分の2近くまで減少していました」とつづっています。そして、フローの死から1か月後、フリントもやつれたまま命を引き取っています。


また、ザンビアで観察されたメスのチンパンジーは、亡くなった幼い子どもの歯を草で磨くような行動を続けていたそうです。2017年にScientific Reportsに掲載された研究では、「これは、ほとんど葬儀のような儀式だと言えます」と記されています。

チンパンジー以外にも同様の「仲間の死を悲しむ行動」は報告されています。イギリス・ブリストル大学の野生生物学者であるゾーイ・ミュラー氏は、2010年にサバンナの母キリンが死亡した子キリンの近くにたたずみ、17頭の群れが2日間それに寄り添って倒れた子キリンを頻繁につつく様子を報告しています。子キリンがハイエナに食べられてしまったあとも、母キリンはエサを食べることもせず、ただ死んだ子どもを見守っていたそうです。


また、2018年にはメスのシャチが死んでしまった子シャチを17日間も押し続けて約1600キロメートルを泳いだというニュースが話題になりました。ワシントン州に本拠を置くクジラ研究センターのブログ投稿によると、シャチがこの行為を自発的にやめたのか子シャチの遺体がなくなってしまったからやめざるを得なかったのかは不明ですが、子シャチの死亡から17日後に母シャチが活発に単独で活動していることが確認されており、クジラ研究センターは「彼女の悲しみの旅は終わりました」と表現しています。


野生動物の群れだけではなく、飼い慣らされた動物も同様に仲間の死に対する反応を見せています。イタリアの獣医師兼研究者であるステファニア・ウッチェドゥ氏は、具合が悪く食事を拒否するイヌを診察した結果、血液や心臓には全く問題がないことが明らかになりました。そのため、ウッチェドゥ氏は「1週間前にその犬の兄弟が亡くなっていたことが原因としか考えられない」と結論付けています。この経験からウッチェドゥ氏は仲間の死に関連したイヌの調査を開始しています。また、ミラノ大学獣医学部のフェデリカ・ピローネ氏らが行った研究では、ペットとして買われているイヌが仲間を失ったときにどのような反応を示したかをアンケートで調査した結果、飼い主の気を引くようになったり、よく鳴くようになったりといった変化の他、遊ぶ頻度が減ったり、食事量が減ったり、睡眠時間が長くなったりといったネガティブな反応が多く回答されました。

「飼い犬は仲間が亡くなると実際に悲しんでいるような行動を示す」という研究結果 -



動物の死に対する反応は、悲しみではなく、好奇心や喪失による混乱、環境の変化によるストレス、恐怖などに起因する可能性もあります。例えば、アメリカガラスは亡くなったカラスの回りに集まって、暴力的に扱ったり攻撃したり交尾しようとしたりする習性があり、一部の研究者はこれを「カラスにとって、リスクと脅威の概念に慣れ、この経験から自分たちの脆弱(ぜいじゃく)性について学ぶ機会となる可能性があります」と示唆しています。

悲しみがどのようなものであるかについては、人間においてさえ正確に理解されているものではありません。「How Animals Grieve(動物はどのように悲しむのか)」という本の著者である人類学者のバーバラ・J・キング氏は、「人間の悲しみは本質的な機能の変化、つまり食事、睡眠、社交という通常のパターンからの逸脱によって定義できます。死によってこれらのパターンからの逸脱が引き起こされ、これにより悲しみの網が広がります。この感情は人間に限らず、数十種類の動物が含まれることになるでしょう」と主張しています


死の認識と葬儀の発生

死というものについて非常に明確な認識を持っているのは動物の中でも人間だけであると言えるということ。それからもう一つは、死というものを認識することによって葬儀というきわめて人間らしい儀式が風習として行われる、この二つであります。

 一体葬儀というものが人類の進化の上でいつ頃から発生してきたのか、その前提としてまず同種の仲間に対する動物の生の認識、仲間が生きているという認識をまずいろいろな動物を比較してざっと考察してみたいと思います。

 動物というのは行動を持っている。いろいろな行動の目的があるわけですが、大きく分けますと、栄養行動――物を食べる摂食のための行動、種族を維持するための繁殖行動――生殖に関する行動、それからもう一つ非常に重要なのは逃避行動といって危険から逃れるための行動ですね。その他にもいろいろありますが、一番重要なのは動物界全般を通してこの3つが挙げられるわけです。

 このようなタイプの行動の中で、私が「関係行動」という名前で一括できるんではないかと思う行動のグループがあります。これは何かといいますと同種の他の個体を認識する、そういう認識をすることによって個体間の関係を維持する。それを「関係行動」と呼んだらいいのではないかと思うわけです。動物によりますと一匹だけで生活していて他の個体は関係ないというものもあるかと思いますが、少なくとも有性生殖をするものでは必ず雌雄の間の何らかの関係が起こるわけです。それは同種の異性、オスだと相手がメスである、メスだと相手がオスである、こういう認識が不可欠です。ですから関係行動を持たない動物というのは存在しない。個体が一人ぼっちで生活しているようなものは存在しない。それが関係行動、同種の他の個体を生きていると認識している、そういう生の認識の上に立った関係行動です。

 動物の種によっていろいろな認識の方法があるかと思います。これは動物が下等であるか高等であるかを問わず一般的に見られることです。ちょっと例を申し上げますと、まず虫の中に昆虫という割合高等なものがありまして、ここにはかなり社会生活の発達したアリだとかハチだとかいわゆる社会性昆虫といわれるものも含まれているわけです。ファーブルという昆虫学者が詳しく述べている昆虫の中にギョウレツムシというのがあります。これは蛾の幼虫で毛虫なんですが、生まれたときからたくさん固まっておりまして木の上で行列を成して行動しているわけですが、一匹だけでは行動しない。必ず大勢のギョウレツムシが群れをなして一緒に行動しているわけです。必ず一緒にいる仲間を認識しているわけです。どうやって認識しているのかはちょっと問題ですが、何らかの方法で認識しているのは明らかです。先ほど言ったアリやハチなどの社会性昆虫も必ずこれは認識しており結びつきを持っていて、社会というものを構成しています。もっと高等な動物、我々と同じ哺乳類ももちろん他の個体に対する認識の上に立って関係行動を行う。

 そこで、もし仲間の個体が死ぬとどうなるか?多くの動物、例えば虫の場合死んだ個体が生じますと関係行動がとれなくなる。何かサインを出しても反応しないというような状態になりますと、全く生きていない物体として取り扱うように見えます。もうほったらかしで何もしない。中にはまだ生きているのにもう邪魔な個体は捨ててしまう、どこかへ持っていって放り出すというような虫もあります。例を挙げますとアリの仲間でハキリアリというのがいます。これは大きな葉っぱを切り取って巣の中に運び、それをうまく発酵させることにより生えるカビとかキノコなどの菌類をエサとしているアリです。大勢のアリが一生懸命働いているのですが、年を取って段々体が弱ってやがて死ぬわけです。段々動かなくなってまともに働けなくなった個体はアリの生活にとって邪魔になる。そうすると、まだ動いて生きているにもかかわらず容赦なく引っ張り出して巣の外へと捨てるわけですね。まだ生きていても単なる物体として扱う。それからミツバチ、最も多いのは働きバチという種類でその中に女王バチが一匹おります。新しく生まれた女王バチがいるとしますと、それが最初にオスと交尾をしてそれから生殖に取りかかるわけです。そのために巣の中には少数のオスバチを生かしてあります。新しい女王バチが生まれますとそのオスと一度交尾をしなきゃならないんですが、その時にオスも一緒に空高く舞い上がって空中で交尾をして帰ってくる。そして女王バチは巣の中に落ち着くんですが、その後のオスバチは無用の長物、一度だけ交尾をすればお役御免であります。働きバチがオスバチを巣の外に放り出して邪険に捨ててしまう。まだ生きているのにそういうふうにあたかも死んだように扱う。そういう行動が虫の中には見られるわけです。


 次第に生物が進化して、脊椎動物のなかで最も進化した哺乳類が生まれてくると、同種の個体の協力関係を必ず保つようになります。どうやって同種であるかを認識しているのかは動物によって様々です。例えばイヌは人間がいろいろな目的のために品種を改良して、現在非常に多種多様なイヌが存在しています。大きさ、形、毛の色などあらゆる点できわめて異なっておりまして、大きいものでは2メートルもあるような犬もいますし、日本の土佐犬もウシとケンカをさせるために大きくした品種でかなり図体がでかいです。小さいのでは昔から日本で飼われているチンという犬がいますが、最も小さいのでは今ではチワワなんていう犬がいて、昔コーヒーカップに乗っている写真を見たことがあります。ブルドッグもずいぶん大きいものがありまして、かつてはブル(bull)つまり雄ウシと闘わせる闘牛がイギリスで流行りまして、そのためにますます大きなブルドッグが作られました。ブルドッグの顔つきがちょっと変わっていて下顎が突き出しているのは、雄ウシのに鼻面に下から食らいつくための形だといいます。ところがギャンブルなどがイギリスで流行りまして、いろいろと弊害が出てきますと闘牛が禁止されました。そうするとブルドッグの本来の役割がなくなったわけで、今度は愛玩用に改良して段々小さいものが作られるようになりました。昔みたいに雄ウシと闘うでっかいのはなくなり、現在のブルドッグは愛玩用に小さくなっています。まあこのように色・形・体の大きさ・性質が千差万別で、我々がちょっと見て同じイヌという種類であるのか分からないというほど大きな違いです。ところがイヌ自身はそうではないんです。どんなに姿形が違うイヌであっても、出会った瞬間に同種のイヌであると認識していて、ネコ・キツネなどと出会ったときとは態度が違う。どうやって見分けているかは分かりませんが、本能的にすぐさま認識しています。おそらくイヌは嗅覚が非常に発達しているので、イヌ独特の臭いを本来持っていてそれで嗅ぎ分けているのではないかと思います。

 我々は霊長類というサルと同じグループです。霊長類というのは地上の哺乳動物のように嗅覚の発達は良くない。その代わりに目がいい。いろんなものを認識するのに、視覚、目で見るという感覚に頼るということがよくあります。

 サルは同種の個体が死んだときにどうするのか。その前に一般の哺乳類では仲間が死んだときにどうするのかといいますと、大体は人間ほどは死んだということにそれほど関心がないようです。しかし、親子などの特別密接な関係のある個体の場合はちょっと違っています。例えばゾウなどで母子連れがいたとして、子ゾウがなにかの要因で死んだとしますと、母親は長時間、長い場合だと二日も付き添っている例が報告されています。やはり子供が死んだということをすぐには認められないという状況があるかと思います。子供が生きているときには密接な関係があったので、それを断ち切りがたいという状況に置かれていたのではないかと思います。しかし、いよいよ二日ぐらいたって子供がいつまでも動かないということになると、やっとあきらめてそこを立ち去る。哺乳類ぐらいになると、特別な関係にあった個体が死ぬとしばらくは余韻が残って執着心が捨てきれない。そういうように見える状況が起こってきます。哺乳類は精神機能、学習能力・知能、そういったものが発達してきて、それと他の個体に対する関係行動が影響を受けているのではないか、と考えられるわけです。

 それではヒト以外のサルはどうか。これは今モンキーセンターの所長をやっておられる岩本さんから前に教わったことですが、ニホンザルの母子で子供が死んで動かない。そうすると母親は子供がまだ生きているときと同じようにずっと抱いたままでいるそうです。子供の死骸は日が経つにつれてだんだんと腐ってきて、とうとう体のいろんな部分がもげてきて、形からいってもうサルとは見えなくなる。そこまで母親は子ザルを抱きしめて共にいるわけです。それで形のなくなる頃にやっとその遺体を捨てるわけです。形がなくなって初めてサルじゃなくなったんだと分かるという感じです。生きているのと死んでいるのとはいろいろな情報からしてはっきりと判断できるわけで、死んだものをいつまでも抱きしめていても仕方がないと人間は考えるのですが、サルは決してそうではない。やっぱりそういう生きている間の親子の関係、これは愛情といってもいいんですが、それを死んでも持ち続けているということでしょう。そのようないろいろな事例から考えまして、どうも同種の他の個体が死んだという認識、死の認識、これを明確な形で持っているのはやはり人間だけといっても過言ではないだろうと思うわけです。

 ヒトは、霊長類の中でも特にいろいろな個体関係が密接に発達していて、複雑な社会を営んでいます。一人ぼっちで一生を送るという人は殆どいないわけで、生きている間はいろいろな人、まず親子、それから夫婦、親族、隣人、こういう多くの人と様々な関係を結びながら人の世を全うしているわけです。他の人に対する感情的な結びつき、これは大きく言って愛情・愛着といっていいと思いますが、そういうものがヒトにおいて大きく発達している。それでもし自分と関係のあった人が死にますと、生きている間のそういう愛情関係があまりにも密接であって、そういう愛情行動が常に心の中に生じているので、いきなりそういう対象がなくなってちょっと戸惑いを感じるというのは普通であろうかと思います。つまり人が死んで、ああそうかといって切り捨てるようなことはなかなかできない。まだその死んだ人についての想いが続いている。ある場合には死んだということをなかなか認めたがらない。実際死ぬところを見ている少数の人は別ですが、間接的に聞いた人はまず、まさかという想いが必ず走る。遠くのほうで死んだ人だと、ほんとに死んだのだと認めたくない、間違いではないか、まだ生きているのではないかと思う。これが人間独特の感情、人情であろうかと思います。そういうような例は我々もよく目にしていると思います。

 たとえば、戦争末期に大陸に置き去りにされましたいわゆる残留孤児、そういう者の肉親捜しなどが時々新聞を賑わしております。そういう可能性のある人が中国その他の大陸からやってきて肉親を捜します。そうしますと肉親の可能性のある人が名乗り出て、本当にこれは血縁であるのかと鑑定をするわけです。私もそういう鑑定に何度も関与いたしました。その時に感じたことの一つは、肉親の可能性が残された人がどうかそうであってほしいということです。自分の大陸に残した子供なりの親族にずっと何十年も音沙汰がない。そういった者は縁が薄くなって、もうこれは死んだと思って諦めるという方が実際的かという感じがしますが、実際はそうではなく、いつまでたってもあの子は生きていると思っていて、そういう人が訪ねてきたときにこれは自分の子であってほしいという感じが根本にあります。それで一生懸命に対応をする。つまり関係がある人に死んだということを認めたがらないという感情が起こる、これはやむを得ないことであるかと思います。

 私事になりますが、家内の親族が太平洋戦争のミッドウェイ海戦の時に蒼龍の機関長をやっておりまして船と一緒に沈んだんですが、残されたその人の奥さんが今でもミッドウェイに行ってみたい、夫が死んだ海に行きたいとこう言うんです。行ったって生き返るわけではない。だけども夫が死んだところに行きたい。これはどういうことか。つい数年前に大韓航空の旅客機がアメリカから韓国にいくのにコースを間違えてソ連の上空を飛んでサハリン沖で撃墜されました。残された遺族がどうしたかというとわざわざ船に乗ってその親族の撃墜されたサハリンの海の側まで行って、そこで花束を海に投げて泣き叫んだ。つまり自分の親しい人が死んだということをなるべく実感したい、実感しないと信じられない、こういう一般的な感情が人間にはあるわけです。

 人が生きているのか死んでいるのか、はっきりけじめをつける必要が人間には起こってくる。これは非常に重要なことです。死んでしまった人を生きているかのように見なして生活するというのは非常に不都合が多いわけです。死んだ人は死んだということを認めてそれから後の前提とした行動に切り替えていかなくてはいけないのですが、それがなかなかできにくいというのが人間としての特徴であります。これがやはり生前の人間関係の緊密さというのをよくあらわしている。まさにそのためにこそ、親しい人が死んだと言うことを納得するための手続きとして葬儀というのは生まれた、そう考えるのが妥当かと思っているわけであります。

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