【8月の日記⑥】週刊文春 9月1日号掲載 田中和将「父と紙」を読んで
2013年に発売されたGRAPEVINEのアルバム『愚かな者の語ること』の1曲目に収録されている「無心の歌」。この曲では、Vo&Gt 田中和将さんの、父親としての覚悟が歌われていてるのですが、「父親の存在をほとんど知らない人が父親になる」という感覚が、私には想像でしかわかりません。
田中和将さんという人は、ひじょうに子煩悩なお父さんだと私は思います。その理由は、田中さんが父親を知らない人だから。父親がどういう存在なのかがわからないから、とにかく子供と向き合うことに一生懸命になってしまうのではないかな、と。音楽雑誌のインタビューやファンクラブの会報ではお子さんの話題が良く出てくるし、曲のなかでも家族を描く歌詞が多く、特に子供に向けたであろう曲が増えていくにつれ、そう感じるようになりました。
ところで、先日、私は生まれて初めて週刊文春を買いました。サラリーマンのオジサマが、通勤電車の中で読んでいるイメージしかないあの週刊誌を、まさか手に取る日がくるとは…。で、なぜ買ったのかというと、2020年初夏に発売された「文學界」に続き、田中さんがまたエッセイを寄稿したと言うではありませんか!(ちなみに「群れず集まる」は来年より高校の国語の教科書に採用されるとのことで、今年再び話題になりました)。
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さて件の週刊文春。田中さんのエッセイは、巻末の見開きページに掲載されているらしい。なので、雑誌の裏表紙からページを捲ると、まず私はその衝撃的なタイトルに目を見張る。
「父と紙」
…そして、思わずその場で固まる。
田中さんがどのような家庭環境で育ったのかは、だいたい知っているけれど、実の父親について書いたのは、今回が初めてだと思います。あくまでも私の記憶が正しければの話になりますが、多分、20年近く前に読んだ音楽雑誌ロッキング・オン・ジャパンの二万字インタビューで話した以外ないんじゃないかと…。そこでは、かなり小さい頃にご両親が離婚され、お母様に引き取られているので、お父様のことについては、ほんの少し触れていただけだった。だから、本当に僅かな時間しか一緒にいられなくて、しかも、今はもう完全に縁が切れているのものだと、私は勝手に信じ込んでました。(お母様の話題は、今も田中さんの口からたまに出ます)それが、違ったんですね。
雑誌が発売されてまだ間もないので、詳しい内容は伏せますが、「父と紙」を読んで知るお父さんと幼い和将少年との間にあった“紙を通してのやりとり”に私はあたたかさを感じました。父親がいない前提で育ち、きっと心のどこかでは寂しさを抱えながら生きてきたはずなのに、当時のその“やりとり”を、大人になった田中さんは、冷静に振り返られています。淡々とした言葉の運びではあるけれど、まるで読み手の子供時代をも思い起こさせるような懐かしさがあります。
そして、今は「3人の子供の父親」という役割が与えらていることで、田中さん自身が守られ、支えられているのかもしれない、と思わずにはいられなかったのがエッセイのラスト。それが、あまりに不器用で、繊細で、読みながら私の心にわき上がってくる感情を、どう言葉で表現したらいいのか、何度読み返しても迷ってしまうほどの、胸に迫るものがありました。
田中さんにとって、お子さんがかけがえのない存在であるように、自分もそういう存在だったのかもしれない…と、父親になり20年近くたった今になって、ようやく受け入れられるようになったのかな。だから、言葉にできたのかな…って、随分えらそうなことを書いているけど、バンドがデビューした頃からほぼ25年間、ずっとGRAPEVINEを聴いていたリスナーの一人なので、どうか許して欲しいです。
また、「父と紙」には「父親と子供」という裏テーマがあり、加えて「ふたつの視線」で書かれていることによって、今まで散々インタビューを読み、曲を聴き続けてきただけではわからなかった、まさしく幻だった点が実は存在していたこと。その点と点がようやく一本の線として結ばれたことが、ファンとしてはすごく嬉しかった。大袈裟でもなく、GRAPEVINE の世界観の「核」とも言える需要なエッセイでした。
読者層を考え、多少、脚色を入れた部分もあるのでしょう。でも、このエッセイにある、ありふれた日常の景色にはっとさせられる感覚は、田中さんが今まで書いてきた歌詞を読んで、何度も何度も感じてきたこと。
育った環境も、今の立場も属性も、何もかもが違うけれど、「人生」というものを、私は田中さんから教えられているのだと思います。
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