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いつかわかる時が来る、その時まで、少しづつ、少しづつでいい、歩いてみよう、そう思う。







突然ですが、自分のことを書き留めようと思います。
(だいぶ長く描いたのと、ちょっとセンシティブな内容になってます。ごめんなさい。)




高校を卒業してからずっと東京でギターの弾き語りで、唄ってきた。
ライブハウスや路上ライブ、県外だと九州一周旅や関西に行ったり、山口県では大学の学園祭に出たり、他にも様々な場所で唄った。
あとはCDを出したり、ワンマンライブ、主催ライブや、個展などもやったなあ。
本当に沢山の、人達と出逢ってきました。(本当に、ありがとうございます。)




実際にライブをしていた頃からは早いものでもう2年半くらい経つのかな、、、
正式に「活動休止」というわけでもなく、ステージから遠ざかりました。
そうなったのは、ものすごく簡単にいうと
心に、問題が生じてきていたためでした。
でも最初に言いたいのは、私にとって音楽は、唄うということは、人生の道そのものであり、戦場であり、大切な居場所で、ここに在る理由です。
こうやって公にすることでもない、そう思っていたのと自分の弱さを人に見せることは、とても怖かったから、(当時は見せてはいけない!の方が強かったかもしれません。)
弱い自分が嫌い、ライブの帰り道は自分への劣等感だったり、プレッシャーだったり、一人で悔しくて、泣いて帰ったりの日々でした。
「強く在りたい」と頑張れば頑張るほど、なんだか心だけが離れていってしまう、自分でさえも、自分を見失ってしまう、ずっと私のことを見ている自分がいる、とても感覚的なものなので、しっかりとお伝えすることは難しいのですが、見た目ではわからない、"心"というものがボロボロになっていたんだと思います。
こんな伝え方なのは、当の本人である私でもそんな心の状況をわかることができていなかったからです。
やっと今、あの頃を思い返すと、理解できてきたことであって「誰も私のことを知っている人はいない」どこにもいない、そんな感覚だったように思います。
今もそうだけど、あの頃はもっとずっと自分自身に必死でした。
今はこうやって冷静に自分のことを言葉にできるくらいに、回復してきたけど、「回復」というのもおかしな表現かもしれないです。
きっと離れることのないこの「痛み」はずっとなくなることはなくて、一緒に歩んでいくものなんだな、そう感じています。
そして何故これを描いているのかというと、その時の感情、楽しいものだけではない、苦しさや悲しみは、これからの私があの頃の私と、今を唄っていくため、生きていくためのものなんだ、そう感じれるようになったからです。
そしてこの抱いてきた感情は、決して私だけのものではないんだということ、どんな状況であれ、残していく言葉や音が、ふといつかあなたへ届き、ほっとする気持ちにすることができたらなって。
『優しさも、痛みも、さらけ出せる、泣くことは全然悪いことなんかじゃないし、でも少しあなたの優しさは伝わりにくいのかもしれないね。』
アルバムを創っていく中で、色んなことを思い出し始めました。








苦しんでいる人へ、
「もっとこうすればいいんだよ」、「こうした方がいいんじゃない?」
なんて言うつもりはありません。求められていないのに、言いたくなんてありません。
極端だけど、もし私に何かできるとしたら「聴くこと」だろうな。
どんな形でも、話してくれたら嬉しいな。
根本は、自分自身。自分が持っているもの。
誰かからしたら「たったそれだけ」、かもしれないけど、誰かからしたら「たったそれだけ」で、傷つく人がいる。
同じ人間がいない分だけ、それだけの"感情"や"思考"がある。
鋭い言葉かもしれないですが、
どうか、「独りにならないで欲しいです。」
孤独を感じることは決して悪いことではない、むしろみんな孤独だと思う。
そう言うことではなくて、独りなんだと思わなくていい、独りになろうとしなくていい、と言うこと。
皮肉にも、どうしようもない孤独感は、わたしを生かしてくれるもの。殺そうとはしてこないんだよね。
もう人を頼ったりするのは面倒だし、裏切られることもない、信じることもしなくていい、楽でいいじゃないか、そう思うと思う。
「独り」になろうとする気持ちもすごく、すごく、伝わります。
「何故生まれてきたのだろう」を繰り返していく中で、気づいたらどんどん堕ちていって、ここがどこだかわからなくなったりもした。
重くなった身体を抱える力なんてあるわけなかった。
良くも悪くも、"生きる"ことに対して、拘ってたんだと思う。拘るしかなかった。だって離れてくれないから。
感じているこの疑問とか感情からは逃げられないなって思ったし、いくら時間が過ぎても忘れることなんて出来なかった。
生まれてきたことに感謝しなさい、そういうのは正直よくわかってない。

(実際私は何故そう思えないのだろう、そう感じてしまうだけでした。)

私たちは誰かのためにこそ力を発揮できるけど、誰かのために生きているわけではない。
霧に囲まれた草原で、ひたすら歩いても進んでいるのかどうかなんてわからなかった。
わかっていたのは、進もうとしていたってこと。
誰かに手を引いてもらっていたい?それとも誰かの手を引っ張っていたい?
わたしは一緒に手を繋いで、あなたと歩いていたい。
いつかわかる時が来る、その時まで、少しづつ、少しづつでいい、歩いてみよう、そう思う。







わたしたちがきっと求めているのは、「自分の中の自分自身に対する、表現への自信と自由」だと思ってます。
他者に対するものではなく、「自分自身に」です。
表現っていってもこれは、私たち表現者に限った話ではなくて、生きている人間たち、みんな共通なんだと思う。
どんな形でもコミュニケーションを繰り返している私たちは常に自分を「表現」している。
だけど、「独り」になろうとすると自分さえも遠ざけてしまう。
これは単なる「自信」のあるなしの話ではありません。
表現している、そこに在る自分を自分が嫌い、認めることができなければ、「独り」になってしまうんです。
去年の1月にnoteに書いた「静寂が好きな人たちへ」というHSPについての記事の反響も踏まえて、これは自分の中で確信に変わっている。




『ちゃんと自分を受け止めて』
サラっと言えちゃうけどこれってとても重い。
これの本質を掘っては気づいて、でもそれだけじゃダメで。辛いって泣いていても変わるのは自分でしかできなくて。
それってすごくすごく素敵だし、考えただけでも頭にぶわっと情景が広がって涙が出そうになる。


-『静寂が好きな人たちへ。』





見た目ではわからないけど、地に足をつけて歩いている人は実はとても少ないのかもしれない。
「私を見つけて」と、どこかへ飛んでいってしまって、戻ってこれない人が多いのかもしれない。
自分の居場所は自分で決めていいはずなのに、何故か委ねてしまう、どこもしっくりこないなんてこともあるだろう。
「独り」であることに気づいた私は、「私を」探していた。
そんなこと当たり前にできる人はいるのだろうけど、"そんなこと"気にしなくていいんだ。
大切なのは、感じていること、自分の声に気づくということ。
自分の中で捨てないでいて欲しい気持ち。
時折、全て捨てたくなってしまう時もあるけど、
自分のペースで歩けばいい、そう言い聞かせています。
もう「独り」にならないように、しっかりと手を繋いで歩いています。この先のことなんてわからないけど、今できること、一歩踏みだすこと。
自分の中にある唄を通して、2年半という長い、重々しい、そして、とても身のある時間を過ごしてここまでやってきました。
そして、やっと集大成の曲たちをまとめて一つの形にできそうです。
新たな「始まり」を迎えるために今あるものを全て出し切ろうと思います。
初めて自分でCDを創って、レコ発をした記念日である9月17日、アルバムを"配信"という形で、完成させようと思っています。
自分にとっての9月は、復活ワンマンをだったり、主催ライブをやったりなにかと節目が多い月なので、今回もそうしようと思います。
あともう少し、待っていてくれたら嬉しいです。
写真はもうずっと前から出来ているアルバムのジャケット。自分で描いてみました。
長々と、下手な文章をいつも読んでくれてありがとう、ございます。

そして最後に、わたしはとても元気です。今日も。







Coco












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