二日目 休日の学校で

翌日。
 今日は土曜日だった。つまり学校は休み。

 ぼんやりとする頭でそれだけを認識して、私は制服に着替える。
 土曜日だが、学校に忘れ物をしてしまったのだ。描きかけの絵と、画材道具を。

 カーテンから漏れる朝日を見つめる。…今日はそのまま学校で描くのもいいかもしれない。
 学校じゃなくても、公園とか。

(…うん、そうしよう)

 そうと決まったら善は急げ、だ。
 私は手早く準備を始めた。


 そして学校。
 ここへ来るまで『校門開いてなくて自宅にリターンするハメに』的な展開を心配していたのだが、どうやら現実は何とかなってしまうものらしい。校門は堂々と開いていた。
 しかし私にはもう一つ難関が残っている。

 上履きに履き替えながら、私は廊下の先をじっと見つめた。

 それは、美術室の鍵を素直に先生が渡してくれるか、という問題だ。

 以前…色々な問題があって、美術室の管理は私が入部した時より厳しくなった。…いや、美術室に限ったことではない。
 正確には教室の戸締りと、鍵の管理が、だ。

「……──…」

 ぎゅっと目を瞑って頭の中の映像を追い払う。…私には何も、関係なかったんだから。

 まだ思い出しそうになる記憶を押し込めて、私は廊下を歩き出した。

***

 念には念を。「美術部員の作倉です」と言って鍵を要求したら先生はすぐに貸してくれた。生徒指導の先生だったし、私の顔もどこかで見覚えがあるのだろう。素直に渡してくれて良かった。

「…さてと」

 懸念していたことはこれで無くなった。さっさと美術室に向かって絵を描くとしよう。そう廊下に足先を向けたその時。

「くら助」

 聞きたくない声が私を捕まえた。

「……先輩」

 慣れたシチュエーションで、音無先輩はそこにいた。

 沈黙が痛かった。
 先輩は私の後ろを少し距離を取って歩いていた。私に一言、「…ついていく」と言っただけで、他に何かを話そうとする素振りもない。
 先輩の飄々とした態度はいつもと変わらないように見えた。無表情で、何を考えているか分からない目も。
 一方私はと言えば、おそらくいつも通りには振る舞えていない。何か話そうとすると声も、手も震えて。
 あの時のことを考えようものなら、マイペースにしか動かないこの足さえも完全に止まってしまいそうだった。

(……どうして)

 上手く振る舞えない自分に情けなささえ感じる。同時に、周囲の評価を真に受けていたことにも腹が立った。
 クール? 大人びてる? …馬鹿なことを言わないでほしい。そして自分も真っすぐに受け入れるな。

 現実の私はこんなにもちっぽけだというのに。


 美術室。

 私は無言で自分の絵の前に座った。後ろで扉が閉まる音がする。
 しばらく向かい合ってみるにも、どうにも描く気が起きなかった。絵が、他人ごとのようにぼんやりと冷めて見えて。

「…くら助?」

 先輩の声がふわっと耳に飛び込んでくる。それだけで私は夢見がちな意識を取り戻した。

「……描こうと思ってたんですけど、」
「…………」
「今日は、描けないみたいです」
「…そ」

 どうでもいい会話。それを交わせることにひどく安心する。
 今日はもう帰ろうか。いつもはやんわりと会話をリードする先輩も、どことなく無口だから。他の女子とは違って、無口な方の私にコミュニケーションはきつい。
 特に、昨日の今日では。

「先輩、部活に戻らないんですか?」
「帰るの、くら助」

 相変わらず人の話を聞いてるんだか聞いてないんだか。私の問いには答えず、先輩は疑問符の無い疑問を返してくる。

「…気分が乗らないなら、居てもしょうがないでしょう」

 だから少しムッとしてしまって、先輩と同じような返事をしてしまった。つくづく、私は面倒な後輩らしい。
 だが先輩は気分を害した様子も無く、ふうん、と頷いた。こんな切り返しにも慣れているのだろうか。変なところで柔軟性がある人だ。

「帰るなら、俺は行くけど」
「…というより、部活はどうしたんですか」

 急に思い出したのではずみで訊ねると、存外きつい口調になってしまった。これでは小姑ではないか。言った後に顔をしかめる。

「休憩。今日は副顧問だったし、堂々と抜け出してきた」
「…………」

 何か悪い? みたいな口調で言わないでほしい。どうして今日に限って主顧問の教師はいないのだろう。タイミングが悪すぎる。

「じゃあ、帰ります」

 画材道具一式をまとめにかかる。使っていない道具を、片付けるのに割と早く終わることは目に見えていた。


「…………」

 …案の定、早く終わってしまった。
 ため息をついて後ろを見やると、先輩はどこか遠くに意識を飛ばしていた。

「………」

 かと思えば真っすぐこちらを見つめてくる。少し鼓動が跳ねたのは秘密だ。ポーカーフェイスの欠片を面に総動員する。

「先輩、私もう帰りますけど」
「…何か奢りたいけど、また今度」
「いや、いらないです」

 大体私と先輩が街中を歩く時は大抵ウィンドウショッピングだ。私をあれやこれやと実験台にしては台風のように店員さんを巻いて去っていく。
 勿論巻き込まれている私は相当疲れるのだが、それと比例するように楽しさもあるのでなかなか断れない。でも、これでいいのだと思う。
 扉を開けて、先輩を外に出るように促す。

「部活、頑張ってください」
「くら助」

 先輩がなかなか外に出ようとしないので、私は廊下に一歩踏み出した。呼び止められたので、軽く首だけ後ろに向ける。

「月曜日も、来なよ」

 無表情に口を開く先輩は、どこか儚げに見えた。

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