一日目 「俺と付き合って」
「──俺と付き合って、くら助」
まさか、こんなことになろうとは。
***
放課後。
珍しく先輩が私の教室にやってきた。
先輩はモテる。
陸上部の短距離エースだし、頭いいし、顔いいし。
明け透けに言ってしまったが、そのマイペースな性格を除けば完璧超人の王子様だ。
さて、そのマイペースな性格だが。私は先輩が先輩である所以だと思ってる。
ぼーっとした表情でサディスティックな発言したり、後輩を無表情でどついたり、顧問のミスを明日の天気でも言うように指摘したり。
若干Sっ気が見え隠れしている気がしないでもないが、それで好かれているのだから不思議な人だ。
ちなみに私の先輩の好きな所は顔だ。あまり感情の動かない、整った顔。
私は、彼の顔を見れば何故だかいつも安心した。
だから、珍しいなあと思いながらその顔を窓辺の席で眺めていたのだが。
「……!」
…視線がばっちり合ってしまった。慌てて目を逸らす。
しかし目が合った瞬間、先輩は『見つけた』という表情をしていたような。私に用でもあるのか、それとも単なる気のせいか。
ぐるぐる考えても明確な答えは出ない。代わりに、とでも言うように出入り口の女子の嬌声が増した気がする。どうやら先輩が一歩中に踏み込んだらしい。
音無先輩が私と同じ教室内にいる。だったそれだけで先輩の視線は真っ直ぐ私に向かっているような気がした。
自意識過剰かもしれない。けれどどちらにしてもこの嬌声は気になるのだ。ならば確認する為にもう一度先輩の方を見てもいいはず。
言い訳のような何かを並べ立て、私は思い切って面を上げた。
「っ……!」
……やっぱり、というか何というか。
先輩は真っ直ぐこちらを見ていた。それに気づかない取り巻きの女子も頭が悪いのかと疑うが、それよりも気づかせない先輩の方が要領がよい、ということだろう。
だが私に用があるならさっさと名指しすれば済むものを。先輩と私は放課後によく会うとはいえ、こうやって来るのは珍しいことだった。そして遠回りすぎる行動が私の頭に謎を呼ぶ。何か変。
この場では伝えたくない用なのだろうか。ならば私も正面切って挨拶する訳にはいかなかった。先輩の微妙な努力を無にしたらはたかれそうだ。どうしようか。
しばらく迷った末、小さく自分を指して首を傾げることにした。『私?』となるべくはっきり口パクするのもつけてみる。
すると先輩は何を満足したのか、少しだけ頬を緩めて微かに頷いた。そしてドアの外に目をやる。…え、分からない。
先輩から目を逸らさずに、眉を寄せて考え込むと、先輩はもう一度廊下を見て顎で指した。…表に出ろ、ってこと?
何とか意味を理解した私が頷くと、先輩はまた無表情で教室を出ていった。先輩を追うように女子達がバラバラと散って教室を出ていった後、私はさり気なく席を立った。もう教室にほとんど人は残っていない。
しっかりと鞄を持って、廊下に出た。しかし考える。
…私、先輩を怒らせるようなことしたっけ?
曲がり角を、右。
「……先輩…?」
なるべく小さく。そう念じながら呼びかけると、自分でも思ったより弱々しい声が出た。少しだけそれに眉をひそめて、周りを見回す。
「くら助」
先輩はいた。
防火扉の陰に隠れていたらしい。逆光から歩いてくる姿は、まるで影絵から抜け出した麗人のようだった。まあ、つまりかっこいい。
「お待たせしました」
「うん、待った」
…相変わらずこの人って意味分かんないな。釈然としないまま、私は辺りをぐるりと見回した。周囲に人気は感じない。
ひんやりとした空気は、先輩が現れただけで何かが変わった。美術部員としてはこの風景をすぐさま描いてみたい気持ちなぐらいで。
いつもは柔らかな日差しが、今だけは悪戯に私たちを照らしているような…上手く言えないけど、意地が悪く見えた。
だけどそんな日差しさえ先輩には背景にしかならなくて。完全に表情が見えないという訳ではないから、右半分だけの微笑を私は見つめた。
無言で見つめ合うこと数秒。
それは突然のことだった。
先輩の表情が、揺らいだ。
(……え?)
どうして。何故。困惑が胸から離れない。
先輩の瞳は困ったような、泣きそうな…眉尻を下げて眼差しがゆらゆらと揺らいでいる。
(なに…何なの?)
いつも無責任にやりたいことだけやっていく先輩が。
今初めて見た、何かを躊躇っている表情。
私はどうしようもなくなって先輩に近づいた。けれどそれは――
「アイキャッチの受信ご苦労。くら助ならそうだと思った」
――先輩の台詞によって、遮られた。
いつもの無表情に戻っている先輩。…さっきのは、幻だったのだろうか。
違和感を覚えながら、私は先輩の軽口に応じた。
「…『どう』だと思ったんですか。意味分かんないです」
「じゃあ分かんないままでいろ」
横暴だ。小さく呟くと、ガシッと頭を掴まれた。
「い、痛いいたい! 痛いです先輩!」
「さっきなんて言ったっけー? くら助」
「すみません何も言ってませんからああ!」
「ん、よし」
笑顔の圧力に屈してしまった……私が心中自分の弱さに涙していると、ふわりと温かいものに包まれた。
(……え?)
「くら助」
先輩の声が耳元で聞こえる。見ると自分のではない腕が胸の前で組まれていた。先輩のものだ。
先輩が、私を抱きしめていた。
「…何ですか? 先輩」
他の女子なら卒倒もんの行為かもしれないが、生憎私は何度かこの攻撃をまともに食らって痛い目を見ている。笑われるとか笑われるとか、笑われるとか!
だから私はこの手には二度と動じないと決めた。
どうだ先輩。私はもう面白い反応なんかしてあげないから。
内心どや顔をしていると心底残念そうなため息が私の耳をくすぐった。
「…なんだ。くら助、もう慣れちゃったんだ」
「私だって馬鹿じゃありませんから。…で、本来のご用事はなんですか?」
もう放課後だ。私たちはお互い部活に入っているし、それなりに活躍もしている。重役出勤ではまた何を言われるか分からない。
なら、さっさと話を済ませてしまった方がいい。
「……………」
「先輩?」
「……………」
無言ですか。
先輩はまた、独自の思考回路で何かを考えているのだろう。無視ではない。
分かっていても、この沈黙は痛い。
「…………て」
「……え?」
先輩は小さく、本当にごくごく小さな声で呟いた。
しかし構えていなかった私はそれを聞き逃してしまい。
「先輩、今何て?」
「……くら助、今の聞いてなかったわけ」
「すみません!もう一回言ってください!」
先輩にまた平謝りする羽目に。
「……まあいいや」
機嫌が直ったようで何よりです。
「今度はしっかり聞くよね」
「………」
断定口調の先輩に無言で何度も頷く私。
先輩は満足そうに無表情で頷いてから、その口を開いた。
「俺と付き合って、くら助」
……今、とんでもないことを言われたような。
気のせいかもしれないので、とりあえずボケてみよう。
「………ど「どこに、とか典型的なボケは要らないから」
「……………」
…どうやら私の考えは先輩にしっかり見通されていた。
「せ、んぱい」
動揺しないと決めたのに、声が喉をつっかえて上手く出ない。
こんな至近距離で呼んだのに、先輩はいつものように「何、くら助」とは言ってくれなかった。
「俺は、本気でくら助がいいから」
ただただ、追い討ちをかけるように一言、言った。
これが先輩の本気かどうかなんて分からない。でも。
「……先輩、放してください」
「…………」
震える声を押し殺して、いつものように回された腕を軽く叩くと、意外にも先輩はあっさり放してくれた。
「………」
「………」
何でもないような風景だった。
私と先輩が向かい合って、いつもみたいに沈黙でお互いを見るのは、さして変わらない日常に思えた。
ただ一つ、お互いの心情を除いては。
「…くら助!」
「………っ」
私は、逃げた。
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