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2021年8月某日の戯言

2021年8月上旬、フランスではついに衛生パス(pass sanitaire)が導入される運びとなった。前言を翻すかのごとく、国民へのワクチン接種は実質的には義務化されることになる。マクロン大統領曰く、この政策は「ロックダウンを防ぐための唯一のやむを得ない手段」なのだそうだ。これに反対するフランス市民は全国でデモンストレーションを行っている。その人数総勢約370万人。政府によると、フランス史上最大規模のデモだそうだ。

私はといえば、デモンストレーションの様子をパソコンの画面越しに観ている。"Liberté! Liberté! (自由を!自由を!)"と叫びながら行進するフランス人市民たち。騒ぎを鎮静するために駆け付けた警官ですら、彼らの勢いに圧倒されて引き返す有様だ。「自由と権利は与えられるものではなく、勝ち取るものだ」と、フランス革命以来脈々と引き継がれてきた彼らの精神性を垣間見た気がした。

リヨンから少し離れたこの街に越してきたのが去年の10月。友人とアパートをシェアさせてもらい、どうにかこうにか、この国の片隅に生き残っている。そして私はずるずると引き伸ばされた時間を生きている。

もう行く予定のない大学は、一応夏休み期間にあたる(フランスでの新学期の始まりは一般的に9月である)。表向き「休学中」の私はいずれにせよ自由の身である。「自由」と口にするのは簡単だが、しかし、「日本人としての魂」を骨の髄まで叩き込まれて育った私にとって、真の自由を勝ち取るのは至難の業だ。

早い話が、「何もしないでぼーっとしている」のが苦手なのだ。働きアリのようにせかせか動き回っていないと罰が当たるのではないかと不安になってしまう。ビザの有効期限は2023年まで。今は「学生」の身分だが、2年後はどうなるかわからぬ身である。それまでに何とかしなければ。収入を増やして個人事業主のビザを取ろうという目論見なのだが、そのためにがむしゃらに働く私を見て友人は笑う。「それは奴隷の仕事だ」と彼は言う。そうかもしれないと私も思う。毎日へとへとになるまで神経をすり減らし、夜遅くまで働いても、雀の涙ほどの給料しかもらえない。そんな仕事でも、しがみついていれば何とかなるかもしれないと躍起になって働いていた。

ところが、8月中の仕事を減らさざるを得ない事態になってしまった。インターネットの調子が超絶不良なので、有無を言わさず仕事を強制終了するしかないのだった。まるで神様が、どこかにあるスイッチをバチンと切ったみたいだった。狂った操り人形の糸を切る神の指。

バカンスはこうして始まった。ほとんど毎晩のように深夜まで友人と映画を観ている。学校をずる休みした子どものように、甘く疼く罪悪感を抱えながら。

今朝起きると雨が降っていた。季節外れの冷たい雨は躰の芯まで凍らせる。インスタント珈琲を淹れて立ったままキッチンで飲む。味のしない珈琲。モノクロの夏。雨を眺めながら思う。私は何をしているのだろうと。

ただここにいることを許されるためだけに、たくさんの言い訳をこしらえている。学校から、会社から、組織から、国家から逃げるために幾千となく嘘をつき、真実となった嘘の帳尻合わせをするためにここにいる。

何のためにここに来たのか。私の選択はこれでよかったのだろうか。「夢のため」と、戯言を吐いているが、本当はただ現実と向き合いたくないだけだったのかもしれない。

そのように弱気になっていたある日、友人が散歩に誘い出してくれた。曇り空が胸を押しつぶすような、鬱陶しい天気の夕方だった。いつもは近所の競技場を通って、スーパーマーケットに寄って買い物をして帰るのが定番の散歩コースなのだが、今日は坂道を登って森の近くまで行った。家を出発したのが19時15分前。曇り空とはいえ、まだ空は明るい。ほんの10分も歩くと家の裏手には広大な雑木林が広がっている。

ふと、道中で猫に出逢った。白いつやつやした毛並みに茶色と黒のぶち模様のある、まだ若い猫だった。驚かせないように猫の目線に合わせてしゃがみ込み、手を差し出すと近寄ってきた。おそらく飼い猫だろう。首輪はしていなかったが、毛並みは整っており、アーモンド形のエメラルドグリーンの瞳は澄んでいる。猫はまだ成熟しきっていない小さな躰を摺り寄せてくる。友人と私が歩き出すと、猫はトコトコとあとを追ってきた。

彼女は ー 確かめたわけではないのだが、友人と私は勝手に雌猫だと決め込んだ ー どこまでもついてくる。私たちは息を切らして丘を登り、雑木林を抜け、街の景色を一望する。仔猫は時に前になり後ろになり、私たちと足並みを揃えてちょこちょこと駆ける。しかし、ある地点まで来ると彼女の歩みはぴたりと止まった。

「ほら、ここがアイツのテリトリーの限界なんだよ、きっと。そっとしておこう」と友人は言う。私はなんとなく別れがたく、馬鹿みたいに彼女に向かって手を振り、その小さな姿をカメラに収めた。よほど抱き上げて連れ帰ろうかと思ったが、彼女にもきっと帰るべき家があるはずだと思いなおし、諦めた。

今日もまた雨が降っている。あの子は無事に家に帰れただろうか。彼女の無事を願おう。

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