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ちいさな奇跡

春のように空気がやわらかい。
天窓から見上げた空を、絵筆で描いたような飛行機雲がゆく。
年末というよりなんだか3月のようだ。
今年は早めのクリスマスパーティーを内輪の友人たちと済ませ、
なんだか年も明けぬうちから気が抜けている。

フランスで過ごす新年はこれで三度目になる。
毎年12月8日から4日間にわたって行われるリヨン名物の『光の祭典』を
残念ながら今年は拝むことができなかったけれど、なんの気兼ねもなく
ゆっくりと家で迎える大晦日もいいものだ。
街を歩くと、教会の広場にはきらめくガラス玉やガーランドで着飾った
クリスマスツリーがあいかわらず佇んでいる。
まるで次のデートを待ち焦がれてお気に入りのワンピースを脱ぎかねている若い娘のようだ。

ヨーロッパではクリスマスから1月6日の公現祭(L'Épiphanie)までが
ひとつづきの時間帯と捉えられているようで、その期間はクリスマスツリーを出しっぱなしという家庭も少なくない。
日本では「クリスマス」と「お正月」はまったく別物で、年末には空気まできりっと引き締まるようなおごそかな気配が漂っているけれど、フランスではその二つはあまり明確に線引きされていないようだ。
シャボン玉でできた七色のトンネルのように、その夢のような時間はいつまでもふわふわと街を覆っている。

リヨンの『光の祭典』の様子

それでも日本人のDNAは私の躰から消えるわけではない。
せかせかと掃除をする私を見て、パートナーは呆れ顔で言う。
「日本人って、よっぽど休むのが嫌いなんだね。年末なんだからゆっくり
すればいいのに」
(ちなみにフランスでは大掃除は春に行うそうだ。)
「いや、そういうことじゃないんだけど、なんだか落ち着かなくて」と私。
「あ、そう。君がそうしたいならいいんだけれど。無理するなよ」
彼はそう言って昼寝をしに行った。
漫画家志望の彼は夜通し働き続けていたそうで、午後2時ころになって
やっとひと段落着いたらしい。読むほうは楽だが描くほうは大変である。
けれど楽しさと苦しさは紙一重なのかもしれない。

「今、幸せなんだ。長年の夢が叶って、毎日がとても充実してるんだ」
と昨晩彼は言った。
「今日、虹を見たんだ!」と瞳を輝かせて語る子どものように。
私はそれをすこし羨ましく思う。
私は果たして、ここに来て自分の夢を果たせたのだろうか。

グリム童話の『幸せハンス』のように ― そこまで潔くはないかもしれないけれど ― 手のうちにあった何もかもを捨ててここに来てしまった。
とりあえず学生ビザを取得してフランス語を一から勉強しなおそう、というプランは当初から持っていたのだが、そこから先は驚くほどの空白だった。

日本にいる間は明日も明後日も一年後の予定も仕事で埋まっていたので、
未来をおそれる時間などありはしなかった。
けれどそれは「とりあえず明日もまた地球は回り続けているだろう」という謎の確信の上に成り立った、透明な仮説にしか過ぎなかったのだ。

しかしここフランスでは、無数の紙きれで武装して一年ごとに存在を主張
しなければ、仕事はおろか自分の存在そのものさえ危ぶまれるのだった。
一か月後、自分がどこにいるかわからない。
目のくらむような空白の中で自分の輪郭が溶けてゆくような気がした。
それはめまいのするような虚無だった。
けれどその圧倒的な虚無の中で、私は生まれてはじめて自由に息ができた
ような気がした。

私がこの国に生き残ろうと姿を消そうと、大多数のフランス人市民にとっては何の変りもないのだろうと、ビザ更新の時期になるとよく考えたものだった。私が吐く息など幽霊の涙ほどの重さもないだろうし、私の名前は幾千の書類の束の向こうに消えていくかもしれない。
けれどいくつもの偶然に導かれて、結局私はここに残った。
教会のステンドグラスに射し込むひかりのような、
ささやかな奇跡のように。

聖マドレーヌ教会(L'ÉGLISE SAINTE-MADELEINE)

こうして新しい年を心静かに迎えることができる、それはちいさなちいさな奇跡だ。
奇跡を宿した一日いちにちは、部屋の片隅に散らばっているビーズのようにちっぽけな粒で、目を凝らさないとかんたんに見えなくなってしまう。
もうすこし毎日を丁寧に生きてみよう、もうすこしだけ背筋を伸ばして
生きてみようと思う。


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