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Re:ゆく夏に穿つ

朝、目がさめるとリビングのほうから物音がしたので、美奈子は眠気をこらえてそちらに向かった。リビングでは買ったばかりの小さなテレビがついていて、それを食い入るように裕明が観ているのだった。

おはよう、と声をかけるより前に美奈子は息を飲んだ。テレビからはワイドショーが流れている。二人の住む隣の街で相次いで発生している中学生の自殺の、新たな死者が出たという報道だった。

裕明はマグカップを片手に、それをつまらなそうな表情で見つめていた。画面の中では神妙な表情のコメンテーターが持論を展開している。

『同じ中学校でね、一か月に4人も自殺というのは異常な数字ですよ。なんらかの特異性をこの学校には覚えます。教職員への聞き取り調査などを実施すべきです。いじめの有無は無論ですが、亡くなった生徒たちになんらかの共通点があったとかね――』

美奈子がリビングのカーテンを開けると、初秋の光が柔らかく差しこんできた。天気予報でもしばらく雨は降らないとのことだった。

朝食はトーストとハムエッグ、野菜ジュースが定番だ。半熟に仕上がった目玉焼きをフォークでつつくととろりと黄身があふれていくる。彼が嬉しそうにそれをいじくるので、美奈子が食べ物で遊ばないようにいうと、彼はにっこり笑った。

数秒の静止時間ののち、彼の所作は一変する。美奈子が名前を問うと、「裕明」とだけ彼は答えた。美奈子が微笑みを返すと、照れくさそうに裕明も笑みを返した。

Re:ゆく夏に穿つ


「意味がわかんねぇ」

警視庁青梅警察署の若宮は、ただでさえぼさぼさの頭を左手でぐしゃぐしゃにした。自殺した4人の中学生は、それぞれ遺書をのこしていた。若宮の頭を悩ませているのは、その内容だ。

『死にたくない』

死にたくないと遺書を残して自殺するなど、前代未聞だ。

「ゆめうめちゃんだよ!」

青梅市のゆるキャラ「ゆめうめちゃん」の着ぐるみの頭部を、若宮はためらいなく叩いた。ゆめうめちゃんの中の人は「何するんですか!」と抗議の声を上げるが、若宮が「練習なら他所でやれ」と低い声で言うと、相手はすごすごと去っていった。

訳がわからない。一人ならまだしも、4人連続で「死にたくない」と遺して自ら命を絶っている。事件性がないとは言い切れない。いや、その可能性が高いと見るほうが自然だろう。しかし、なぜこのようなことが起きているのか。

「ゆめうめちゃんだよ! ゆめうめちゃんだよ!」

今週末、ショッピングモールで特殊詐欺防止のキャンペーンイベントがあるのだ。隣の部屋で続くゆめうめちゃんの練習に、若宮は深くため息をついた。

「さながらオカルトだな」

***

月に何回か、奥多摩から木内と岸井が二人の暮らすアパートにやってくる。美奈子は木内の旧縁を頼って、神保町の小さな出版社に勤めることになってはや一カ月が経過した。

「お仕事はどう?」

手土産の手作りワッフルを皿に盛りつける岸井に、美奈子はハキハキと「楽しいです」と答えた。

「社長も奥さまも、とても良くしてくれます。先輩方も気さくに話しかけてくれます」
「それはよかった」

木内は裕明とともに、ジグソーパズルに勤しんでいる。

「青空オンリーのパズルなんて、難易度高くない?」
「それは、空の表情をちゃんと見ていないからそう感じるんだよ」
「うーむ。相変わらず裕明は詩人だなあ」

裕明の、パズルピースを持つ手がふと止まった。すぐに木内は彼の手を取る。数度の瞬きののち、彼は木内の手を強く握り返した。

「わぁ、パパだ!」
「……秀一」
「うん、ぼく!」
「パパな、ピカチュウとピチューの区別がつくようになったぞ」
「ほんとうに?」

それからしばらく歓談していた4人だったが、次回会うときは美奈子と裕明の住む街から車で40分ほどの霊園に行こうと提案したのは、木内だった。

「もうすぐ月命日なんだ」

美奈子は頷いた。

「雪さんの、ですよね」

岸井が「まぁ」と感心した声を上げた。

「わかるのね……さすが、というべきなのかしら」
「不思議なことじゃありません。雪さん本人が教えてくれただけです」
「それを言われちゃうと、僕の立場がないな」

木内は苦笑しながら、美奈子に白い封筒を渡した。

「この街にも僕の信頼できる医師が何人かいる。連絡先と、診療情報提供書と、紹介状ね」
「ありがとうございます」
「でも、なにかあったらちゃんと僕らを頼ってよ。あまり大声じゃ言えないけど」
「その言葉だけでも、嬉しいです」

スマートフォンが着電したので木内が席を立つと、岸井がワッフルを頬張りながら話しかけた。

「秀一、最近怖い夢は見てない?」
「なんで?」
「寝不足の顔色よ」

裕明——いや秀一は、ワッフルの包み紙をしばし弄んでいたが、岸井のその問いかけに、「見るよ」と答えた。それに驚いたのは美奈子である。

「そうなの? 秀一」
「うん。でも、いっつも美奈子お姉ちゃんは朝は忙しそうだし、帰ってきても疲れてるみたいだから、話せないなーって」

五歳児(の人格)に気を遣われるとは。美奈子は思わず首を傾げてしまう。

「ごめんね。よかったらどんな夢か教えてくれる?」
「うーん」

バタバタ遊ばせていた脚を止めると、秀一はいった。

「願いごとが叶っちゃう夢」
「どういうこと?」
「それは——」

唐突に途切れた言葉は、人格交代の合図である。岸井も美奈子も、彼の様子をじっと見守る。そこへ、電話を終えた木内が戻ってきた。

「いやー、失礼失礼」
「仕事? 急用?」
「仕事といえば仕事かな。急用ではある」
「もったいぶらないで」
「若宮からだ」
「えっ」

木内は、俯いて固まった裕明の目覚めを促すように正面から声をかけた。

「頼みがある」

やがて、彼はゆっくりと顔を上げて、視線で木内をとらえると「……なんでしょう」と問うた。美奈子はすぐに気づいた。今出現した人格は、かつて復讐のために裕明の一家を惨殺した殺人鬼のそれであると。

「この番号からお前のスマホに連絡が来る。協力してやってほしい」

木内が携帯電話の番号を書いて彼に渡すと、彼は目を細めた。

「個人情報漏洩じゃないんですか、先生?」
「すまん。だが、余人をもって代え難い案件なんだ」

彼——佐久間は「そうですか」とだけ返答した。

***

若宮との待ち合わせは、JR青梅駅近くのカフェだった。閑静な住宅街のなかで隠れるように存在するそのカフェは白と木目を基調とした落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

「こんなおしゃれなお店があるなんて」

目を輝かせる美奈子。しかし若宮は浮かない表情だ。煙草が吸えないからである。

「最近はどこも禁煙、禁煙ってな」
「でも、おしゃれです」
「それは重要事項か?」
「もちろん」

若宮は鼻をスン、と鳴らして笑った。

「さっそくだが、本題だ。これは正規のルートじゃない。刑事ではなく、俺個人からの依頼だと思ってくれ」
「……口外するな、と」

佐久間ではなく智行がそういうと、若宮は短く頷いた。智行はニヤリと笑う。

「タダってわけにはいかねえな。高くつくぜ」
「わかってるさ。知っているとは思うが、今この界隈で奇妙な現象が起きている」
「中学生の連続自殺だな」
「話が早い。俺はこれは事件だと思ってる。刑事の勘ってやつだ。だが、証拠がないから警察として動けない。そこで、江口裕明の能力を借りたい」

智行はうすら笑っている。美奈子はアイスコーヒーにミルクを入れて、それが溶けてゆくのをじっと見ていた。

若宮は左手の三本指を立てた。

「報酬はこれでどうだ」

美奈子が思わず訝しむ。

「なんですか、それ?」
「三十万」
「ええっ」
「凋落デカのポケットマネーじゃこれが限界だ」

智行は若宮が持ってきたタブレット端末で、自殺した中学生たちの遺した遺書の画像を眺めていた。ふと、その挙動が止まる。やがて彼は、意外な言葉を口にした。

「カネは結構です」
「なんだって」
「その代わり——」

彼——佐久間は冷徹な視線を若宮に向ける。

「若宮さんの権限で、見せてもらいたい書類があります」
「取引ってか」
「江口医師と彼の勤務先の病院の処遇実態について」

その用件を聞き、若宮は息を飲んだ。

「雪の主治医だった江口医師と、俺たちが入院させられていた病院について知りたいのです。雪がなぜ自分から命を手放したのかを」
「……それは……」
「雪の死には、江口医師の故意や過失が関係あるのは間違いありません。それは江口医師本人から最期に聞きました。だが、本当にそれだけなのか? 俺にはとてもそうは思えない。真相を知る権利が、市民にはあるはずです」
「とても殺人鬼のセリフとは思えないな」
「『雪』も教えてはくれないんです。彼女自身でも語れないほどのことなんでしょう」
「……わかった。善処する」
「約束してください」

若宮は、佐久間の気魄に首肯せざるを得なかった。

***

数日後、若宮から預かった証拠のデータの入ったタブレット端末は、すぐに秀一のおもちゃと化した。写真のアプリをすぐに見つけて、「パトカー」「ピーポくん」「おてがみ。『に、た、く、な、い』」などと、写っている内容を列挙している。

秀一が「おてがみ」と表現したそれは、「死にたくない」と書かれた遺書だった。彼には漢字の「死」が読めないのである。

美奈子が夕飯を運んでくると、リビングでタブレット端末を握りしめたまま彼が静止していた。

「食べよう、裕明」
「……うん」

鯵の干物ときんぴらごぼうという質素な食卓。干物の焼き方もきんぴらごぼうの作り方も、インターネット検索ではなく岸井が教えてくれた。

「裕明、なにかわかった?」
「うん、たぶん」
「さっすがー」
「いや……あまり気分のいい話じゃない」
「顔が暗いぞ、裕明センセ」

美奈子が茶化すように言っても、裕明は真剣な表情だ。

「これは確かに事件だけれど、『被害者』は誰だろう」
「え?」
「いずれにせよこのままじゃ、また犠牲者が出る」
「そうなの?」
「若宮さんに連絡するよ。次の『願い』が叶えられてしまう前に」

***

若宮のスマートフォンに、SMSでメッセージが届いたのはそれからすぐのことだった。それが裕明の番号からだとわかると、若宮は奥多摩のスナック「りんどう」のカウンター席でガッツポーズを決めた。

「どうしたの、宝くじでも当たった?」

りんどうのママ、小泉メイが若宮のどこか興奮した様子を牽制するように、ナポリタンをカウンターに置いた。

「冷めるから食べちゃえば」
「俺の勘は外れてなかった」
「はい?」
「青梅市長渕5-×-×-302」
「何その住所」
「たぶん、次の『被害者』の住所だ」

裕明から提供された情報によれば、自殺した中学生はいずれも自らの意思で死んだわけではなかった。だから、「死にたくない」と書き遺した。しかしながら、誰かの手で殺されたわけでもなかった。

遡ること一年前、同じ中学校から転校をした少年がいた。そこまでは若宮も把握していた。だが、その先の情報は常軌を逸しているといっても過言ではなかった。

裕明によれば、転校した少年Aは当時、同級生らからいじめを受けており、再三にわたって「死ね」などと暴言をぶつけられていた。

今回、自殺に至った4人はいずれもいじめに加担しており、同時に「死にてぇ」「ちょっとマジ死ねるんだけど」「死にたーい」「死にたいわホント」などと、たとえ悪質な冗談でも「死」について言及していた。それが『願い』ということである。

裕明によれば、4人を殺したのは転校した少年Aの生き霊だという。それが彼ら彼女らに取り憑き、首吊りに至らしめていたというのだ。

少年Aをいじめていた生徒は他にも複数人おり、このままでは犠牲者はまだ出るだろう、とのことだった。

「オカルトもここまでくれば天晴れだな」

***

少年Aがどこに引っ越したのかを調べるのは簡単なことだった。急転直下、事件は収束に向かった。ただし、物的証拠も何もないため、少年Aを罪に問うことはできなかった。

「彼に必要なのは、罰ではなく癒しです」

という裕明の言葉に従い、少年Aには木内のつてで公費負担でカウンセリングが提供されることとなった。その有効性と事件との関連性をめぐっては警察内で疑問視する声があったものの、そこは若宮がかつて警視庁捜査一課で培った粘り強さをみせた。

事実、あれ以来その中学校では「死にたくない」という遺書を遺して死ぬ者は出ていない。

ワイドショーがあっけなくこの事件のことを忘れた頃、青梅署内でゆめうめちゃんの着ぐるみのメンテナンスをしていた若宮のスマートフォンが鳴った。ごくりと唾を飲み、若宮は通話ボタンをタップする。

「お疲れ様でした、若宮さん」

その口調で若宮は理解した。これは佐久間からの電話であると。

「約束を、果たしてください」
「……わかってる」

***

若宮のプライベートメールアドレスからPDFデータが送られてきたのは、事件解決から二週間後のことだった。

この日、木内たちと雪の墓参りに行くことになっていたので、タイミングとしてはベストに近かった。その場にいる皆で裕明の捜査するパソコンを覗きこむ。

添付されていたPDFに書かれていたのは、直視するに耐えない事実だった。

裕明の父である江口医師が、佐久間が雪に渡すよう看護師に託した手紙をシュレッダーで破棄させた。

手紙の存在を知らない雪は自分が佐久間に見捨てられたと思い調子をひどく崩した。

拒食と拒薬が顕著になり、無理やり飲ませようとしてきた看護師に対して今にも折れんばかりの細い手足で必死に抵抗した。

それを「暴れた」と判断されて保護室という名の隔離部屋に連れて行かれた。そこで下着を剥ぎ取られ、おむつをつけられ、拘束具で身体を拘束された。

拘束解除以降も、雪の精神状態は慢性的に悪化の一途をたどった。

雪が自殺してなお、身体拘束と自殺に関連はないと江口医師は主張していた。江口医師は医局長から副院長への昇進が決まっていたため、余計な事故は「残念な一事例」として処理するほうが都合がよかった。

その場にいた一同は、言葉を失った。

「ひどい……!」

最初に声を出したのは、美奈子だった。

「病院って治療するところじゃないんですか? これじゃ雪さんは病院に殺されたようなものじゃないですか」
「すまない」

木内が口を開く。

「僕は何も知らなかったんだ。担当病棟が違ったということもあったけれど……。ただ、残念ながらこのような処遇は珍しくないんだ。医師の権限で『治療』と称して患者の尊厳を傷つけるような行為が合法化されている。もちろん現場職員の疲弊も一因としてあるだろうが、それは精神科にだけ少ない人員配置の特例を強いている現行の制度が——」
「雪。雪、ごめんね」

木内の言葉を遮って、佐久間が声をあげた。美奈子を強く抱きしめて、彼女の髪をなぜながら。

「つらかったよね。嫌だったよね。苦しかったよね。俺は、君に何もしてあげられなかった」

美奈子は目を閉じる。美奈子の中に流れる裕明の血液。そこに確かに、「雪」を感じるからだ。

「どうか、その痛みを俺に分けてほしい。君を傷つけるやつらがいたら、ちゃんと俺が殺すから」

物騒に聞こえて、どこまでも優しい言葉。美奈子は佐久間の腕を抱きしめ返した。美奈子の体を借りて、雪は彼にこう告げる。

「私のほうこそ、ごめんなさい」
「雪……?」
「本当のことを言えなくて、ごめんなさい」
「雪は何も悪くない」
「でも、私はきっともう大丈夫」

美奈子――いや雪は、慈愛に満ちた瞳を佐久間に向ける。

「だってこうして、あなたと一緒にいられるんだもの」
「雪……!」
「あなたはもうじゅうぶんに苦しんだ。たくさんの命を奪ってきた。全部私のためなら、もうそんなことをしないで大丈夫よ」
「ああ、雪、ごめんよ。あの日一緒にいられなくて。きみがすずかけの木で死を選んだあの日、俺がそこにいたのなら――」
「過去に仮定はないわ。それに、あなたは『今』、こうしてここにいてくれるじゃない」
「許して、くれるのかい……?」
「許すとか、許さないじゃない」

雪が佐久間の肩をさすると、佐久間は身震いをした。

「私は、あなたを愛している」

過日の悲しみが、時を超えてほどかれていく瞬間。真実を知ることがいつだって正しいとは限らない。むしろ知らなければよいこともあるだろう。だが、真実を知らない限り、佐久間と雪とが、互いに降りかかった運命の冷たい雨から逃れられることはなかったはすだ。

二人は今まさに、過去という呪縛から逃れて改めて共に生きていくことを誓ったのである。

佐久間の目から流れる涙を雪がそっと指でぬぐってやると、彼は殺人鬼のそれとは思えない柔らかな笑みを浮かべた。

***

「有馬家之墓」と刻まれた墓石の前で、裕明、美奈子、木内、岸井の4人は手を合わせた。段々と日が短くなっているらしく、西に傾いた太陽が霊園全体を照らしている。秋の虫の声が耳に心地よい。

「遅くなってごめんね」

美奈子がそう言うと、とくん、と彼女の心臓が反応をした。確かに、雪が美奈子の中に存在していることの証だ。

「うん。一緒に、生きていこうね」


夏が駆け足で過ぎ去ろうとしている。何度季節が巡っても、同じ季節は二度とやってこない。それは、時間が不可逆で生きることが死への一方通行なことと似ている。

だからこそ、二人は穿つのだ。その声を、影を、体温を、容赦なく通り過ぎる苛烈な夏に。


Re:ゆく夏に穿つ END

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