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パトグラフィーから逃れて適当な鼻歌を歌う感覚から見えてくる本質のこと

先日の記事で私は「私の創作はどこまでも私のためだ」と書きました。これは創作する動機を自分以外の誰か・何かに置きたくないという意味で、決して「自分の作品に口出しするな」などといった独善的な意味合いではなかったです。ですが、私の文章力の低さゆえ誤解を招いてしまったかもしれないとも感じています。万が一そうであれば、それは素直にお詫びの気持ちを示したいと思います。すみませんでした。

自分の創作の動機と目的

自分の創作の動機と目的を、もう一度考え直してみました。別の記事へのコメントにも書いたのですが、やはり私の創作は自分を許す、手放す、見守る、認めるといった類の効果(総称してここではこれらを「解放」と表記します)を期待してのことのようです。しかしながら、いつまでもパトグラフィー、或いはそれにも満たない領域で技巧ばかりを磨いても、それはそれで苦しいというか「欺瞞」なんですよね。

私が「なぜ創作するのか」。この問いの立て方自体が実は誤謬で、ナゼナニ以前に私は「書かずにいられなかった」のだろうと振り返ります。もちろん自分がヴァレリーのような偉大な詩人だとは微塵も思ってなくて、ただ「書かなければ何かを保てない」(「正気」なら随分前に手放したと自覚していますが)という「弱さから生まれる創作衝動に抗えない」という表現が、魂の声に最も近しいでしょうか。そう考えると、創作せずにいられない、という状態は生存のために呼吸と摂取と排泄を繰り返し必要とすることとほぼ同等だと言えそうです。

自由を奪われた体験がもたらすもの

ここまで書いてなんとなくわかってきました。精神科に入院して起床から就寝まであれこれを管理(監視)され(下手すると就寝後もバリバリ、プライバシーは侵害されてた)生き方やら価値観やらにすら土足で踏み込まれた時の心地悪さや恐怖は、創作において「書きたい」衝動をねじ曲げられる嫌悪感に通じているのかもしれません。だから、魂の赴く方向(それが常に「前向き」とは限らないのですが)を品評されることは、私にとっては、とても平たく表現すると、ほんとやめて!!!!と悲鳴を上げんばかりの恐怖体験なのです。

ただ、ここで注意深くわきまえたいのは、自由奔放に創作して自分を解放するもろもろと、「信頼できる人たちからの客観的な意見に素直に耳を傾ける」ことは全く別の軸の話だという点です。透明文芸部でさまざまな意見と出会えることは、だから本当に楽しみなのです。私が「バズり」や「万人受け」を狙わない(そもそも狙えない)のは、まさにこれが理由です。名前も知らないどこかの誰でもいいからとにかく届けたい、より広まればよい、より売れればよいという哲学・価値観に立脚することが(「弱さ」のためか)私には不可能です。繰り返しになりますが、私の創作は第一義的にはどこまでも私自身のためです。でも、そこから私の作品が響いてくれる、場合によっては求めてくれる、そんな「大切な人たち」にもしも魂のかけらの一端が届くことがあれば、それは本当に嬉しいことなのです。

別に特別なことではないからこそ

さて、私はパトグラフィーを意識して創作をしているという自覚はありません。読みたいものを書く、というとてもシンプルなスタンスでこれまであれこれ書いてきました。ですが、結果として私の作品の9割方には精神疾患に関する描写やエッセンスが出てきます。でもそれは、特別なことを表現したいのではなく、それだけ精神疾患が私にとって身近な存在であり、創作において自分を解放するときに欠かせないものだということは、はっきりと言えそうです。精神疾患はそれ単体が「病」として在るのではなく(医学的には遺伝的要因などが指摘はされているものの、明確な原因や絶対的なコトモノとの相関は明らかにされていません)、それを保有する人の人生に強く紐づく存在です。なので、苦しいです→だったら薬やサプリメントやなんちゃら療法で押さえつけましょう・軽減しましょう、というのが今日来の精神医療の限界ですが、それはその人の人生にものすごく失礼なことだよな、とは思うのです。

せっかく一線を超えられたなら、それでこそ見える世界もあろうかと。少なくとも私は凡々人なので、多少なりともそうした病の力を借りないと書きたいことが書ききれない、という側面も、もしかしたらあるのかもしれないです(もちろん、創作は精神疾患保有者の特権ではありません。この記事はあくまで「笹塚心琴」の主観を出ないものという注釈をつけさせてください。)。

ただ、それがじゃあ私の創作がパトグラフィーなのかと問われると、うーん、正直まだよくわからないです。。でも、一つの「~学」からは逃げ続けたいな。創作は抑圧からの逃避行だから。

愛だよ、愛(結局ね)

でも、書きたいものをなりふり構わず書いてきてわかったことがあります。それは、創作は、人間の本質に迫る手段の一つになり得るということです。そして、もしもこの本質が細胞のような形状になぞらえるのなら、その核にあるのが、非常に陳腐な表現ですが「愛」なのかもしれません。まるごとの人間を表現しようとする時、そこに私が求めるのは私自身への解放です。その深奥、核心には常に「愛」が在る。

人を憎むのもあきれるのも失望するのも、すべては前段に期待という「愛」あればこそだし、愛の反対語は「無関心」だといいますが、そのことはとても滑らかに私の喉元を落ちてゆきます。人間の本質は多面的ですが、そのどれにも核心に「愛」があると考えると、愛はただ生易しいばかりの概念ではないし、時として容赦のないエグさを示すのだろうと考えます。

だからこそ、創作は面白いんだと思います。答えのない命題、筆跡が真っ白のテクスト、落としどころを失った旅。つらいし苦しいのに、やめられない止まらない。それでも、何もかもに終わりが来ると考えたら、ますますワクワクしてしまいます。

だから鼻歌が必要なんだ

私はこれからも創作を続けます。私の魂の核にも在るであろう「愛」を認められる日まで、まだかなり時間がかかりそうですが、それまでも、しばらくもがけるだけもがいてみようと思います。

愛ってなんぞや? 見たことないけど。

と、駅前でチャトラ猫が笑っていました。いつも通りの帰宅です。願わくば、即興の鼻歌をのびのびと歌うようなほがらかさで創作に臨めればと感じています。だって楽しくなきゃ、何も始まりませんから。

もうしばらく、あれこれ模索が続きますが、逆にもがくのをやめたらその時に、きっと私は自分の創作に「おわりのはじまり」を見出すのだと思います。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。急に秋が秋らしく秋になってきたので、少し風邪を引いたようです。皆様もどうぞご自愛くださいませ。

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