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ゆく夏に穿つ プロローグ~第二章 口笛

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<プロローグ>告白

その夜の南大沢警察署は、悪質な飲酒運転の取り締まり対応に追われたものの、取り立てて大きな事件も起こらずに一日の業務を終えようとしていた。
加えてその年は長梅雨ということもあり、軽微な物損事故を起こす車も多発していた。

南大沢は警視庁の管轄で、八王子市南部に位置する比較的閑静な土地に警察署を構えている。

今日も明日も、大きな事件や事故は起きない。何が起きたところで、所詮は他人事なのだ。この街に暮らす人の多くは、そうした意識に疑義を唱える余地も持たず、日々を送っている。

しかし、「非日常」という亡霊は、夕立のように突如として立ち現れるのだ。

Tシャツを着た少年がうつむいたまま、南大沢署の玄関に姿を見せたのは、午後十一時半を過ぎた頃だった。
警備にあたっていた警官が、不審に思って少年に声をかける。

「きみ、こんな時間にどうしたんだ」

少年は、こぶしをギュッと握り、か細い声でこう呟いた。

「僕は……しました」
「えっ?」
「人を、殺しました」

<第一章> 遺言

……かつて愛した貴方へ。私には一切の恐れるものがなくなり、失うものを失い果てて、ついに自由から逃れなくなりました。すなわち、私が残滓であるということを、他でもない私自身が理解してしまい、この薄汚れた殻を破らざるを得なくなったのです。
貴方を愛した罪は、己が手で裁きます。

さようなら、さようなら、あなた。一滴の未練も遺さず旅立てるのは、貴方が傍いてくれた、その所為よ。

さいごに、不器用な貴方の口笛が聞きたかった。


夢であってほしいと、強く願った。右人差し指の爪を何度も噛み、髪を乱暴に掻きむしって、どこにいるのかもわからない「神様」に向かってひたすら祈った。それしかできなかったから。

しかし、何をどう足掻いたところで、厳然たる現実はごろんと彼の目の前に転がった。これ以上の無情が、一体どこにあるというのだろう。

覇気を失った瞳が、じっと彼女の幻を見ている。彼は今、何を思うのだろうか。

「約束しよう」

かすれた声を、彼は絞り出す。

「君と俺は、必ず結ばれるって」

その強ばった表情からは、到底想像もつかない柔らかな言葉。こんな現実を目の前にしておきながら、あまりにも優しすぎる体温を抱いた言葉。
彼女は死んだ。美しいまま、逝った。
夢であってほしいと、何度も目を瞑った。
しかし現実は、無残に彼の願いを拒絶した。

「約束しよう」

再びそう零すと、彼は彼女の幻に口づけをした。
外では、蝉どもがワンワン喚いている。やかましくてとてもレクイエムになどならない。

神様、こんな季節に彼女を送り出した俺の罪を、どうか決して、許さないでください。

神様、どうか。

***

蝉時雨と読経の声だけが小さな部屋に響いている。泣く者はいない。たった二人の参列者。その内の一人である彼女の母親は、僧侶の読経中ずっとうつむいていた。
やがて読経が終わると、僧侶は軽く会釈し、そそくさと去って行った。母親は、棺に横たわる娘の顔に触れようとして、しかしその手を止めた。

「触れてあげないんですか」

もう一人の参列者である木内が、母親に問いかける。

「これで、最後ですよ」
「わかってます」
「じゃあ……」
「もういいんです」

母親の表情は、どこまでも硬い。木内がやりきれない思いを持て余していると、葬儀会社の職員がやってきて、二人を促すような口調で告げた。

「あの、もういいですか」

母親はその言葉に自棄になって、「結構です!」と吐き捨てた。

それから間もなくやってきた数人のスタッフによって、非常に手際よく、遺体は安置施設から運ばれていく。荼毘に付すためだ。しかし、事情が事情なので霊柩車などは用意できない。外には黒塗りのバンが用意されていた。隠れるように、いや、実際隠したかったのだろう、母親は周囲の誰からも見咎められないよう助手席に座ると、ただでさえ小さな体をさらにかがめた。
すべてを見送っていたのは木内、ただ一人であった。

木内は、自身の精神科医としての無力さを、正面からぶつけられたような痛みを胸に覚えていた。

爽やかな、初夏に吹き抜ける薫風のような雰囲気の少女だった。ちょっと内気で、詩歌を詠むことが好きで、こちらが話しかけるとよく笑顔で返してくれた。

「原因」は、誰にもわからなかった。いや、人の心など他者には到底理解できまい。推し量ることはできてもそれが想像の域を出ない以上、詮索するだけ傷が深くなるだけだ。直接の原因」は、誰にもわからなかった。いや、人の心など他者には到底理解できまい。推し量ることはできてもそれが想像の域を出ない以上、詮索するだけ傷が深くなるだけだ。

理由がどうあれ、あの少女が戻ってくることは、二度とないのだから。

陽光がさんさんと降り注ぐこの季節に、一人の少女が、自ら命を絶った。

「今日も天気がいいですね」

そんな会話さえ交わしていた。

ある日の昼食後、編み物に興じていたはずの彼女の姿がふと見えなくなった。彼女は、作業療法の一環として編んだリリアンの紐を、幾重にも束ねていたようだった。開放病棟の裏手にある「安らぎの庭」と名づけられた中庭にそびえる大きなすずかけの木、通称「約束の樹」からぶら下がっている彼女を最初に発見者したのは、駆け出しの精神科医だった木内であった。

木内は無我夢中で彼女の首に食いこむリリアンを引きちぎろうとした。何度も彼女の名前を呼びながら、跳ね上がる動悸の処し方などわからないまま、自身の爪に血が滲んでもなお、手を止めることはできなかった。それでもなかなかちぎることができなかったリリアンは、もしかしたら彼女を生涯苛んだ苦悩を代弁していたのかもしれない。

「なんてことを……!」

大粒の汗が木内の額から彼女の首筋に落ち続ける。そして暑さゆえにすべてがすぐに乾いて消えていってしまう。まるで何事もなかったかのように。
彼女の意識が戻ることは、二度となかった。

家族にすぐ一報を入れたものの、その連絡で病院まで駆けつけたのは、疲れ切った母親一人だけだった。

「この子は病院で、お引き取り願えませんか」

それが、変わり果てた娘を見た母親の第一声だった。

「えっ?」
「この子は、ここで亡くなったんです。自分から死ぬことを選んだんです」
「そう言われても――」

言いかけて木内は言葉を失った。母親の少し落ち窪んで老いた目には、疲弊しきった諦観が滲んでいたからだ。

「夫も、この子とは既に縁を切ったと申しています。もういいんです、だってしょうがないですし」
「しょうがない」。自分の子の死に対して、なぜそのような表現が使えるのだろう。

しかし、木内がそんな母親を責めることはなかった。どうしても責めることができなかった。木内自身には母親の意思を批判する筋合も、気力もなかったからだ。

「わかりました……。でも、お願いです。せめて、見送ってくれませんか」

蝉が朽ちたところで、誰が泣く? 夏は一方的に過ぎていくだけだ。

一人の少女の人生がひっそりと終わった、静かすぎた夏の日。まだ臨床経験の浅かった精神科医の木内の内面に、大きく影を落としたあの笑顔。
もしかしてこの季節は、君にとっていささか眩しすぎた?

新規入院患者の受け入れのための処分として、生前に彼女が使用していたベッドの下を掃除したとき、キャンパスノートを破ったような小さい紙切れが発見された。

鉛筆やボールペンは先が鋭利なために病棟で禁止されていることから、作業療法の時間にこっそり持ち帰ったクレヨンで書いたのだろう。太くて愛らしい肉筆で、紙切れにはこう記されていた。

あめがふらなきゃ にじは かからないよね

木内は白衣を叩きつけるように脱ぎ捨てると、壁に頭を押し当て、容赦なくこみ上げてくる感情に押し流されるままに涙を流した。

<第二章> 口笛

彼は機械的な動きで銀のボウルの中の巨峰を一粒ずつ指でつまみ、隣に置かれた白い皿に移し替える。4秒間で一粒移すのが、だいたいの目安だ。呼吸をまったく乱すことなく、しかしどこか切迫した空気を醸し出しながら、「作業」は行われている。

ボウルに入れられた巨峰の中には、極端に粒の小さいもの、傷がついてそこから劣化しているもの、変色しかけているものが時々見つかる。そういう「不良品」を指でつまむとき、彼の目は少しだけ細められる。

ああ、君たちも、誰にも必要とされず棄てられるという意味で自分と一緒なんだな。そっか。じゃあせめて、自分が愛してあげようか。

彼は表皮がめくれた一粒の巨峰をつまんだ親指と人差し指に、眼前でためらいなく圧力を加えた。果肉が潰れたところで、音が立つことはない。「不良品」が飛散させた汁をまぶたにしたたかに浴びた彼は、それを疎ましげに反対の手の甲でぬぐう。次に、その手をゆっくりと舐め始めた。

最初こそほのかな甘酸っぱさを感じられたが、すぐにその味覚はただの皮膚のそれになる。つくづく、つまらないと思う。つまらないと思うことをつまらないと思う。キリがないものには、価値も意味もない。彼は、誰に教わるでもなくそのようにわきまえている。

「作業」の手を止め、天井を仰ぐ。真っ白に塗装されたそれは、ただそこに在るだけでじゅうぶんに冷たい。次に壁の四隅に目をやる。やはり白いそこには、以前一度だけアンリ・マティスの「マグノリアのある静物」の贋作を飾られたことがあった。

いや、贋作どころか白系統の色彩で模倣されたそれは、作者への侮辱ではないかと伝えたところ、「ごめんね」と謝られて撤去された。別に謝ってほしかったわけではないけれど、絵なら自分で描くのでそんなものは不要だと思う。

さながら古代宗教の儀式だ。彼は神聖な表情すら浮かべて、再び静かに巨峰を皿に移し替えはじめた。

突如、午後3時を知らせる柱時計の鳩の声によって「白い部屋」を支配していた静寂は破られてしまう。「パッポー」と三回鳴いて引っ込む、その間抜けな姿に苛立った彼は、玉のように美しい粒の巨峰を床下に落としてしまった。

「あっ」

傍観者はいない。彼は首をかしげてそのまま硬直する。ゆえに一向に落ちた巨峰を拾おうとはしない。

そうだね。そうやって堕ちて穢れたなら、君もおんなじになれるんだ。

しばらくぼーっとその新しい「仲間」を見つめていた彼は、やがて長く息を吐いた。

部屋の調度品は全て白色で統一されている。そこに奇妙さや違和感を覚えるという感覚は、すでに「彼」には存在しない。この場所は部屋というよりも「箱」という表現が相応しいかもしれなかった。

この箱の中で、彼は生きている。生かされている。

午後3時はこのクリニックでは面会の終了時間だ。今日もまた、「彼女」がここにやって来ることはなかった。いつものことだ。わかっている。わかってはいても、彼は自分の胸に深く穿たれた空白を埋める術を知らない。

空白は容赦なく徐々に浸食し、彼を「正常とされる範疇」から追い出そうとする。そのえもいわれぬ恐ろしい感覚からどうにか逃れようと、彼は胸元で両手を組み、何かに祈るような格好でベッドにそっと仰向けになった。

「どこにいるの」

この問いに答える声はない。だから誰も彼を許すことはないし、そもそも「彼」を認識するものは、ここにはいない。

祈るたびに、それがまるで無意味で、しかも無味無臭な欺瞞に過ぎないのだと痛感させられる。届かない祈りなど、独善の域を出ない。そのようなことは、彼はとうに身に沁みて理解している。理解しているからこそ、空白がひたすら、彼の中に拡がっていく。

彼は、現実から脱出する手段の一つとして、不器用に口笛を吹くことがある。

……Over the Rainbow……

落ちた巨峰だけが、彼の口笛を聴いている。
落ちた巨峰だけが、彼の孤独を知っている。
すなわち、誰も彼の孤独を知らない。






第三章はこちら


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