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ゆく夏に穿つ 第二十三章 連鎖

<第二十三章> 連鎖

復讐というものもまた、何も救われないという意味で、誰からも忘れ去られた古いフィルムのようである。カタカタと音を立ててからまわる、寂しさや虚しさを映して、やがてそっと沈黙するのだ。

赤く猛る炎が、優しい時間と白い空間を飲み込み、それよりも深い紅の雫を湛えた銀色の刃を握ったままの「彼」に、しかし復讐を達成した感慨などは微塵もなく、燃え朽ちていくその家屋をじっと見つめていた。

佐久間の隣には、茫然自失で全身を震わせている少年がいた。悲鳴をあげることすら叶わず、炎がなにもかもを飲み込んでいく、その残酷な様子が少年の網膜と脳裏に焼き付けられていく。

佐久間は少年の家族の命を奪ったナイフの刃で、自らの指先を切った。そこからゆっくり溢れくる血液は、炎のそれよりずっと厳かな深紅をしている。佐久間は炎を前に凍りつく少年、少年の頬を己の血まみれになった左手でゆっくりと撫でた。少年を見つめる瞳は、しかし悪魔のそれではなく、果てしなくいびつな慈愛の気配を帯びていた。

「あ……う、あ……っ」

佐久間の血にまみれた顔で、声にならない声をあげる少年。

「覚えておけ。お前が、すべて覚えておけ。この光景、この温度、このにおい、すべてを」

「あ……」

「お前は生き残って、苦しみ続けるんだ。なにもかもを背負って」

激しい音を立てて家屋の主柱が焼け落ちる。火の粉がその場にいた二人を包み込んだ。

ほどなくして消防隊が駆けつけたとき、佐久間はその場で自分の腹部にナイフを突き立てて自殺を図ったが、すぐに救急車で運ばれ皮肉にも一命をとりとめた。だが、意識を取り戻すことのないまま数か月後に死亡した。

一方の少年は、不幸中の幸いで軽い火傷だけで済んだが、血と汗でぐしゃぐしゃになった顔で凍り付いていた。少年の身柄は、火傷の治療のためすぐに病院へと運ばれた。救急車の中で、現場に駆けつけていた若宮が、ハンカチで少年の顔をぬぐってやったが、少年の体は徐々に震えだしていた。しかし、恐怖のあまり震えているのではなく――少年は、笑っていたのだった。やがて電池の切れた玩具のように少年は気絶した。それからしばらくのあいだ意識を取り戻すことはなかった。

血の味が口の中に、いや全身に広がっていく。

覚えておけ、お前がすべて覚えておけ。この光景、この温度、このにおい、すべてを。

血の赤と炎の紅。その色彩が少年の魂をズタズタに侵襲する。

分裂したパズルピースたちが元通りになることは、二度とない。

(雨、あめ)、

(ふれ、ふれ)、

(いや、降るな)、

(ねぇ、楽しかったね。)

(ありがとう、楽しかったよ。)

(楽しかった。)

(嬉しかった。)

(幸せだった。)

(みんな、過去形だけどね。)

「ああああああああああああ」

佐久間の死亡と時を同じくして、入院先の病院で少年が意識を取り戻した。しかし、あまりの事件の忌まわしさゆえ、親戚はみな彼の引き取りを拒んだ。加えて、少年は意識を回復して以降、奇異な言動をとるようになり、医師の判断で児童精神科のある病院へと転院させられた。

少年は無垢な瞳でぬいぐるみを欲したかと思えば突然激しく怒り出したり、ほろほろ泣いていたかと思えばいきなり笑いだしたりと、「パーソナリティ障害」と診断されてやってきた。

児童精神科病棟で当時かけだしの精神科医だった木内と少年は、ここで邂逅を果たす。木内は少年の落ち窪んだ瞳をひと目見て、すぐに「パーソナリティ障害」という転院元の医師の見立てに強く違和感を覚えた。

「はじめまして。きみと一緒に治療を頑張る、木内といいます」

少年はしばらくうつむいて黙っていたが、突如として両手を上に伸ばし、星を仰ぐかのような仕草をした。それからまもなく、木内を見てにっこり笑い、こう口走った。

「あめがふらなきゃ、にじはかからないよね」

この時以上の衝撃を、木内はいまだに知らない。

決して許されないという烙印として、僕は「僕ら」としてしか生きられない。死ぬことさえ選択できずに、罪を償いながら、償い終えることを知らないまま、無様に生きながらえていくんだ。

 僕はまた、人を傷つけた。

(あめがふらなきゃ、にじはかからないよね。)

(だから、雨、あめ、降れ、ふれ。)

(フフフ、いや、降らないで。)

(クスクス、ねぇ、楽しかったね。)

(うん、ありがとう、楽しかったよ。)

(楽しかった。)

(嬉しかった。)

(幸せだった。)

(みんな、過去形だけどね。)

(だけど、雨が降れば、虹がかかるから。)

(虹がかかったら……)

***

意識を失ってしまった美奈子は、あおいによって処置室に運ばれた。

「貧血とか、疲労かな」

あおいは美奈子にタオルケットをそっとかけた。

「水分を持ってくるね」
「すみません」
「いいのいいの」

そう言ってぱたぱたとあおいが部屋を後にすると、それを待ち望んでいた影がひとつ、不気味に差し込んだ。





第二十四章につづく


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