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ゆく夏に穿つ 第七章 斜陽

<第七章> 斜陽

青年は強引に美奈子の腕を引っ張り、獣のように鋭い眼光を彼女に突きつけた。美奈子の額の汗と血の気とが、一斉に引いていく。

「こんなところに、何をしにきた……」

先ほどまでの透明感のある声とは打って変わって、低いうめき声で青年は美奈子に詰問する。

「アレか? 『傾聴ボランティア』だかなんだか、よく知らないが、人をダシにして承認欲求を満たすような輩には、用はないぞ」
「私は、別にそんなんじゃ……」
「じゃあ何しに来た。ここはお前のような小娘の入ってきていい場所じゃない」

そう言い放ち、青年は美奈子を突き飛ばすように解放した。体勢を崩した美奈子はテーブルの隅につかまり、どうにか転倒せずに済んだが、ひどく動悸を感じる。

「どうして?」

美奈子の問いは二重の意味を含んでいる。すなわち、「なぜこの部屋に入ってはならないのか」と「なぜ突然そんなに態度を変えたのか」という疑問である。

青年は「どうでもいいが」と吐き捨て、先ほど自分が注ぎかけたカルピスに目をやった。その両目が、キュッと細められる。

「いいことを教えてやろうか」
「えっ」

青年はグラスを手にし、中の白い液体を揺らした。

「『あいつ』、まだ知らないんだよ」
「何をですか」

美奈子の率直な問いかけに、青年は喉の奥から込み上げたようなくぐもった声をあげた。

「生きることの醍醐味」
「醍醐味?」

そのままグラスを傾けると、青年は唇をつけて原液のカルピスを一気に飲み干してしまった。とろとろとした甘ったるさが彼の口腔に広がる。青年は美奈子に視線を絡みつけながら、ニヤリと笑みを浮かべた。

「『あいつ』はまだ、キスも知らない。それどころか、自分で抜いたことすらないんだぜ」

突然青年の口から飛び出した言葉に、美奈子は戦慄と強い戸惑いを覚えた。

「何を、言って……」
「『そーいうの』はさ」

青年が美奈子の言葉をさえぎって、甘さの残る唇を舌なめずりする。

「ぜーんぶ俺が、いただいてるから」
「あなたは……」

美奈子はようやく言葉を絞りだす。

「一体、誰……?」

すると、青年は美奈子の頭からつま先までを舐めまわすようにじろじろと見ながら、ニヤニヤと言葉をぶつけてくるのだ。

「誰かに名前を訊く時には、先に自分から名乗りな、お嬢ちゃん」

青年の言っていることは確かに正論だ。ゆえに美奈子はすぐに、「ごめんなさい」と頭を下げた。このようなしなやかさが(美奈子自身には自覚がないものの)、彼女の長所の一つである。

「高畑です。高畑美奈子」

青年は「あっそ」とだけ返す。美奈子は虚を突かれた表情を浮かべた。

「あの、あなたのお名前は」
「そんなことより」
「『そんなこと』って……」
『あいつ』の秘密を教えてやるよ」
「はい?」
「さっきまでお前に愛想を振りまいていたヤサオトコだよ」
「まさか、あなた――」

美奈子は言葉を失った。本や漫画で読んだことはあったので、その存在自体は知っていた。けれども、こうして実際に目の当たりにしても、滑稽な一人芝居を観ているような印象しか受けなかった。

しなしながら、「彼」はここに実在している。今まさしくこの瞬間、美奈子の目前に。正式な名称こそ知らないが、この青年はいわゆる「多重人格者」なのかもしれない。そうだとすれば、突然挙動が不自然になったのち、態度を急変させたのも合点がいく。

青年は窓辺に腰掛けた。セミの大合唱と陽光を背に受け、そよ風に髪を預け、どこか神聖な雰囲気すら醸し出している。彼は深呼吸し、自らの着ている白のシャツを手で払うと、はっきりとした口調で美奈子に告げた。

「『あいつ』はね、人殺しなんだよ」
「えっ」
「驚いた? ミナコちゃん」

青年は美奈子をあざけるように薄ら笑う。その実、たじろぎそうになった美奈子だったが、どうにか首を横に振った。

「別に、初対面の人の過去がどうあれ、それは私の知ることではありません」

青年は「へぇ」と左眉を上げた。

「まぁ、所詮は他人事ってところか」
「違います」
「じゃあ何だよ」

美奈子は、意思のこもった瞳でキッと青年を真っすぐに見据え、こう言い切った。

「これから、知るんです」

それを聞いた青年は、「はぁ?」と乱暴に吐き捨て、美奈子を試すようにこう問うた。

「人殺しの何を知るってんだよ」
「『人殺し』じゃありません。あなたと彼について、私は知りたいです」

傾きはじめた陽光が青年の背中を睨みつけ、やがて彼の視界をぼやけさせる。彼は窓ガラスに身をもたれさせて、長く息を吐いた。細長い両腕を交差させて自分の肩を強く抱きしめる。

すぐにその全身が小刻みに震えはじめた。身をガクガクと揺するそのさまは、決して演技や演出などではない。その姿を、そよ風で膨れた白いカーテンが見え隠れさせるが、これは確かに目の前で起こっている現実なのだ。

「……そんなに『知りたい』のなら、教えてやるよ……」

意識を失うその一瞬手前、青年の視界はこちらをまっすぐ見つめる美奈子を捉えた。

「……あ」
青年は糸の切れた人形のような不自然な格好で、しばし斜陽とセミの声に晒された。その一部始終を見届けていた美奈子は、得も言われぬ憐れみを似た感情を抱き、たまらなくなって青年のそばに駆け寄った。

白く細い青年の手を、そっと取る。美奈子は少しの間、意識を失った青年のそばで、セミに混じって鳴きはじめたヒグラシの、自分に語りかけてくるような悲しみの声に、そっと心を向けていた。

柔らかな風が湿気をさらってふわりと吹き抜ける。ヒグラシの声は、人を問答無用で感傷的にさせるものだから、美奈子はそっと目を閉じた。彼女のまぶたの裏に、クリニックの入口に並んでいた、丁寧に手入れされたガーベラたちが浮かぶ。

「きれい、だったな……」
「なにが?」

突然、あどけない声をかけられた美奈子は驚きを禁じ得なかった。青年は――いや「その子」は、幼児のような口調と首をちょこっとかしげる動作で、美奈子にこう問いかけてきた。

「ねぇねぇ。おねえちゃんは、だぁれ?」 





第八章につづく


よくぞここまで辿りついてくれた。嬉しいです。