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人間の唯一の義務は自分であること

昨日、社会心理学者の加藤諦三さんが文化放送のラジオ「ロンドンブーツ1号2号田村淳のNewsCLUB」に出演していました。加藤さんについてはあまりに有名なので私がここで紹介することもないけれど、とてもしんどかった時期に著書を何冊か読んで、気持ちの整頓を手伝ってもらった記憶があります。

とてもしんどかった時期と書いたけれど、本を読めるほどには回復していた時期のこと。きっと最もしんどかった頃には文字を読むことができなかったから、多少落ち着いてきたころのことだと思います。「きっと」と書いたのは、病識がないころのことを覚えていないから(苦笑)。

さて、あくまで要旨なので多少の解釈の間違いはご容赦願いたいですが、加藤さん、ラジオでこんなことを言っていました。

人間の唯一の義務は自分であることです。

と。

ずっと噛みしめていたい言葉です。軸を自分に置けるかどうかが重要なのだと思います。同時に、その「自分」を磨け、と加藤さんは言っていました。

さらに学歴は人を救わないけれど、学問は人を救う、とも。不安なのは、無知だから。歴史がたくさんのことを教えてくれるのに、触れないのはもったいない……。これって、肩書や免許や資格は人を助けなくても、本質的な人と人との関りが人を助けることに似ているなと思いました。学びに期限はないので、これからもどんどん色々を学べるという現実はとても喜ばしいです。

先日、電車を降りてとあるおじさんの前を横切ったところ、そのおじさんは私に向かって舌打ちをして「ンダコラァ!!」と怒鳴ってきました。私は突然のことにびっくりしてその場から逃げたのだけれど、あとから「逃げないで言い返してやればよかった」「なんであんなことされなきゃいけないんだ」と怒りがふつふつとわいてきました。でも、そこで自分の感情を鎮めるためだけに、そのおじさんを「許す」という選択をしました。もしかしたらおじさんのたまたま虫の居所が悪かったのかもしれない。そこに偶然私が通りかかったので不運にも私が怒鳴られただけなのかもしれない。それだけのこと。そこに余計な意味を付加しない。それは、独りよがりなことだから。

「怒り」は、いとも簡単に正義の仮面を生み出して相手を攻撃してしまうし、攻撃している以上は自分が正義だと妄信してしまいます(じゃないと攻撃している自分を正当化できない)。正義の仮面は同時にそれ自体の執着にも繋がってしまうから、顔も覚えていないおじさんにいつまでも怒りを覚えておくことには何のメリットもない、という判断をしました(我ながらナイスプレーだと思っている)。以前の自分だったら「私がなにか悪かったかな」とかいつまでも気に病んでいたかもしれません。

経験や学びって、こうして人を助けるんだな。と。

ラジオの話に戻ります。自殺は他殺、という言葉もとても刺さりました。自ら命を絶った何人かの友人の顔がよぎりました。人間は生きるようにプログラムされているので決して幸せになるようにプログラムされているわけではない、と加藤さんは言っていました。安易な解決や救いを求めるから本質が見えなくなる、ということも。だからこそ、能動的に幸せになりにいくという姿勢が重要なのかな? とか思ったりしました。もちろん幸せがなにかなんて定義は「自分」の中にあればいいわけで。

ラジオを聞いていて、加藤さんの発言・思想を「すごいな」と思うと同時に常にどこかでクリティカルであれ、というメッセージも加藤さんは発信していたように思います。多くのことに通底していることだけれど、誰かがどうにかしてくれるという「魔法の杖」はまず疑ってかかる。これ、とても重要な学びです。

シェアするので、ぜひ聴いてみてほしいです。かいつまんだ笹塚の文章より一聴、いや百聴の価値があると思います(リンクは加藤諦三さんの出演時間にあわせてあります)。

先行き不安な今だからこそ、知というお守りをもっともっと身につけていきたいな。最近はそんなことを考えています。

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