ココルームに吹く風
路上。
なまなましく むきだしの 何かが、じっとりべっとり横たわっている。
その傍ら、色んな はやさで 前に進んでゆく人たち。
そのひとりひとりの影にもまた、何かが、じっとりべっとり蟠っている。
ああ、やみつきになるカオスさ
人間 が 生きている
この 生き生きさ は 一体何なのだろう
なんでか、この「訳の分からなさ」が わたしの心を引っ掻いた。
それで、立ち止まりたくなった。確かめたくなった。
この まち と、ココルームという場所と、そこを行き交う存在たちの
その中に、とどまってみたくなった。
そんなこんなで、春学期の授業と課題を ほぼほぼ終えた6月下旬、1ヶ月分の生活を詰め込んだキャリーケースとともに電車に乗り、半年ぶりの、釜ヶ崎。
インターンしている人として スタッフのふりをしつつ、住み込みだったため ゲストのふりもしつつ。しかし ココルームという場所で、そういう立場や役職、「わたしは〇〇です!」は、非常に もろいものだった。働く人ーお客さん、教えるー学ぶ、話すー聞く、そういう肩書きによって決められた役割のようなものは、ここで人と関わるうちに、ポーンと飛ばされてゆく。というか、皿がパリーン と落っこちて割れる音が響くように、こわされてゆく。最初は 困惑した表情で「なんだこの場所は…?!」という訳の分からなさとともに立ち入った人も、気づけば まかないご飯を食べていたり、お皿を洗っていたり、「あれ わたしって 誰だっけ なんで ここに いるんだっけ」という問いに変わっていくかのような、そんな仕掛けが ぬるぬると施されている場所。ある日、初めて訪れた海外からのゲストが、小上がりに座って ココルームの様子をしばらく眺めたあと ”Who are the staff and who are the guests...?” と、つぶやいた。 ああ これがココルームや。こういうことや。と、わたしは頭の中でガッテンした。誰が誰だか わからない。けれど、それがいいんだ。こうして 目に見えるものも、目に見えないものも、様々なものがうごめくココルームには、風が通る隙間が確かに存在している。そこを通り抜けていく風は、いろんな音や 匂いや 色や 味や 温度 を連れてくるから、おもしろい。その風に吹かれるまま 在る時間が、心地いい。そして、たまに、めんどくさい。が、それもまた、おもしろい。
さいきん、言葉 に頼りすぎているということに気づいた。気づかされた。大学生になってから特に、言葉を駆使する日々が続いている。文章を整えたり、説得させるため・論理立てて説明するために 言葉を探したり、ディスカッションやディベートという 素早い言葉のやりとりに 何とかついていこうと自分自身を追い込んだり。学問をする場だからそういうものだ、と割り切ればいいのだが、わたしは なんだかモヤモヤしていた。論理立った綺麗な言葉でスッキリ説明されてしまうものよりも、どんな言葉を使っても表しきれない、どうしたって言葉にならない、そんな訳の分からない事象のほうが たくさんある。というか、そういうものばかりで、この世は溢れているのではないか、と。自分の言葉でスッキリ言語化できた時の快感にうぬぼれることがある一方で、分からなさ や 言葉にならないもどかしさ、言葉にはできないけれど 確かに感じること みたいなものを ただ抱きしめていたい、そういうことこそを大切にしたい、という思いが わたしの中にふつふつとしている。
その思いが芽生えたのには きっかけがある。以前、知的障がいにある人たちの作業所に関わらせてもらっていたときのこと。利用者の方々と接する中で、彼らと言葉でコミュニケーションが取れないということに ものすごく苦戦した。わたしが話しかけても理解してくれているのか 分からない。相手が、何を感じ考え、伝えたいのかも、わたしには分からない。分からないことだらけ。ただ紙を握りしめ唸っていたり、ずっと歩いていたり、ぼーっとしていたり、庭の草花をちぎって匂いを嗅いでいたり、ただ笑っていたり、泣いていたり。ひとりひとり、それぞれの仕方で、ものすごいパワーを持って、何かを表現しているのに、わたしにはそれがどういう意味を持っていて、何を伝えたいのか、分からない。そんなもどかしさを ある職員さんと話したとき、その人がこんなことを言ってくれた。「『彼らが、言葉でコミュニケーションすることができない』のではなく、『私たちが、言葉以外での表現を理解することができない』 つまり、私たちの方こそ 障がい者 なのかもしれないね。」これを聞いたとき、自分がどれだけ言葉に縛られて生きているか、気持ちのやりとりを 言葉に頼ってばかりいるか、に 気付かされた。気持ちのやり取りって、言葉だけじゃないはずだよね。感情って、言葉では表しきれない、捉えきれない 生き生きさ を持っているはずだよね。どうしても 筋が通った意味付けをしたくなってしまうけれど、そんなことしなくたって いいじゃんか。そんなことを、彼らの存在から 教えられた。こういうことがきっかけで、言葉ではないところにひらかれてゆく表現のあり方を模索したい と思うようになり、その流れで、ココルームという場所に行き着いたような気がしている。
よく思い返してみれば、「表現」というものは、「表現」という言葉としてわざわざ意識せずとも、わたしのそばに 身にせまるようにして いつもいた。小さい頃、自分の気持ちを他者に伝えることが苦手で、言葉を飲み込むことが多かった。そんなわたしは、モダンバレエに出会って、踊るようになった。踊ることが好きになった。踊っているとき、からだを動かしているとき、飲み込んでばかりいた自分の感情が大きく発散されてゆくような感覚があったのだと思う。しかし、そこに比較や評価が入り込むことを自覚するようになってから、踊るということに不自由さを感じるようになってしまった。特に、高校の部活で踊っていたときは、その不自由さが常に正当化されているようだった。鏡と向き合う日々。周りが思う「じょうず」に近づくための練習。つらいなあと感じることが増えてゆく。しかし、なぜだか 不思議なことに、踊ること自体は 嫌いにはならなかった。
その理由が、釜芸の「呱々の声」に参加して 分かった気がする。
「呱々の声」は、最初にひとりずつ挙げたSafer place を呪文のように唱え、それから、からだを借りて自分の人生を表してみる という 不思議な講座だった。自分がただ動いて表現する のではなく、他者が、自分の人生をただ うんうん と頷き受け入れるように、動きを真似してゆく。わたしもまた、他者の人生を疑似体験するかのように、真似しながらついてゆく。ココルームのあの庭で、久しぶりに 踊る ということをしてみたら、ほんとうに気持ちよくて、おもしろくて、楽しかった。あ、この感覚だ。からだは、言葉では表しきれないものをも 表現してくれる。からだは、飲み込んだ声を、言葉を、より生き生きした状態のまま 話してくれる。からだ は、気持ちの温度を できるだけそのまんま 表現してくれる。これだ。 踊り は、残らない。言葉や、形のある作品とは違って、その表現を保存しておくことができない。けれども、もう二度と訪れない、いま この瞬間の この動き、この表情、それを観ている人の心の動き が 生き生きと うまれてゆく。
からだ それは存在である。 踊り それもまた、存在である。「呱々の声」の経験をとおして、あの作業所で出会ったひとりひとりのことを、いま改めて思い起こしてみた。彼らは、ひとりひとり ただそこに存在していて 何かを発していて、それはまさに からだ から表される感情。彼らの踊りとリズム。存在から溢れ出る表現 だったんだ。それを目の前にした わたしの心に、はたらきかけてくるものがあって、言葉では説明できないのだけれど、彼らの表現を受けたわたしの感情が動くのを確かに感じていた。言葉にできないというより、言葉にしたくない。言葉にしてしまうと、こぼれ落ちてしまうものがある気がして、なるべく、そのひとりひとりの存在が持つ温度を そのまま感じ、受け止めたい。何か立派な 意味 がなくても、その存在そのものが表現だ。アートって、なにか作品を作ることでもなく、自分一人で生み出すものでもなく、こういう 掴みきれない心の 相互作用 のことなのだな、(假奈代さんの言葉を借りて)「表現が あいだ にある」あり方、そうやって互いに はたらきかけること なのだな、と 過去の経験とココルームでの学びが絡み合い、わたしにそう語りかけてくれた。
明確な意味や目的がなくとも、誰かの存在-表現 が 誰かの心にはたらきかけることがある。それは表現する主体によって意図されたものではなく、偶然起こってしまうもの。このように、誰かの表現を受ける側の心の動きも含めて アート と呼ぶのだとしたら、誰もが、アートによって生きている・生かされている。ココルームには、色々な存在が風に乗ってやってくる中で、パズルのピースがはまったり はまらなかったりしながら、とにかく色々と おもしろい化学反応が生まれてゆく。わたしは 朝のラジオ体操の時間が大好きだ。ラジオ体操をする私たちと、その前を行き交う人々、相互にはたらきかけまくっている。その中に困惑した表情を見つけると、これからおもしろい化学反応が起こる前兆のようで、わたしは わくわく ニヤニヤ してしまう。こうしてココルームと関わり、人と関わってゆくうち、次第に、私たちは ひとりひとりに何か役が与えられていて、それを演じるように生きている、そう見えてくるようになった。その役は ”わたし”かもしれないし、時には別の名前の人物かもしれない。そのひとりひとりの登場人物たちが、「カラン コロン」という あのドアが開く音と共にやってきて、ここで出会い、交差し、また「カラン コロン」と旅立ってゆく。そうして、ストーリー展開の分からない、メチャクチャな物語になってゆく。
訳の分からなさ に惹かれてたどり着いたココルーム。1ヶ月くらい暮らしてみて、その訳の分からなさにどっぷり浸かって、わたしの心は 様々に刺激を受け、ふにゃふにゃになった。そして、非常に うずうずしている。
みんな、答えや結論が出ていないような感じ。ここで働いている人も、ゲストの人も、なんとなくここに来る人も、みんな。旅の途中。通過地点。問い、問われる日々。だからこそ ここは、安心して うずうずしていられる場所。安心して 分からないままで いられる場所。
これからも、できるだけ 温度のある言葉を探しながら、同時に、言葉ではないところにひらかれてゆく表現に 心を向けていきたい。
ココルームで出会ったひとりひとりが、今もどこかで、いろいろな音を鳴らしながら、踊ったり、歌ったり、話したりしながら、または何もせずとも ただ存在することをしながら 生きている と思うと、ココルームで感じた このうずうずしている何かを、自分の心の中に確かに思い出し、感じるのです。
これからも、風に吹かれゆくままに。
( 2024年8月 ほさな )