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わたしと釜芸

#01 「弱さ」を抱えて、生きる

中山博晶


「教授*¹はなんでかまぷーに入ろうと思ったの?」

今回の「わたしと釜芸」を始めるにあたって話し合いをしていたとき、突然私に話がふられた。
「調査のためですよ」と冗談っぽく話していたが、内心そういえば同じようなことを聞かれたことがあったなと、釜芸で初めてインターンをした日のことを思い出していた。

その日、私は常連客から「なぜ釜ヶ崎に来たの?」と質問攻めにあっていた。長々と研究関心を話しても「なぜ」「どうして」と切り返される。彼は、私が何者で、何に関心があって、何を考えているのかを、繰り返し尋ねた。でも私はうまく答えることができなかった。

時が経ち、かまぷーのメンバーになって1ヶ月が経とうとする頃。私は、なぜ釜ヶ崎に来たのか、はたと気づいた。

「私、弱かったんだ。」

この答えはいつか変わってしまうかもしれないけど、でも今はそれが一番腑に落ちる。
ある時ある瞬間、釜芸で経験したことと、そして私がこれまで経験してきたことの点と点が繋がった気がした。

今まで何かを書くときはいつだって私でない誰かの話。でもここでは、私の話をさせてほしい。見苦しいかもしれないけど、いくつかの文脈を紐解いて、釜芸に関わる理由を探ってみる。


遡ること15年ぐらい前のこと。まだ私が小学生だったとき。
授業中に先生から「結婚したら(女の子たちは)専業主婦になりたい?それとも仕事を続けたい?」という問いかけがあった。男子には結婚した相手にどうしてほしいか尋ねてきた。当時は2000年代中頃で、徐々に共働き世帯が増えるなかでの、家族のあり方を考える授業だったのだろう*²。
どちらかに手を挙げてもらうことになる。クラスのなかでは専業主婦になりたい、仕事を続けたい、がそれぞれ半分ぐらい。そのなかで当時私が片想いしていた女の子は「働きたい」に真っ直ぐ手を挙げていた。一方私はというと、好きな子と両想いになれないかもしれないとショックを受けながら、でも確かに「主婦になってほしい」に手を挙げていた。

私は「男性」として生まれ、シスヘテロなセクシャリティ*³で、しかもなぜか家の長男として生きていくことに使命感を持っていた。
両親は公務員で共働き。祖父母が手伝っていたとはいえ、仕事や家事に追われる母の姿を間近で見ていた。そして母は体力があるわけではなかった。
「女性は弱くて、男が守るべき」。そんな考え方が、あの時の私にはあったのだと思う。だから好きな子が「仕事を続けたい」に手を挙げたことは、当時の私にとって衝撃的で、今でもその記憶が強く残っている。

中学生のとき。
私の通っていた中学校はいわゆる「荒れた学校」だった。金八先生よろしく、授業中に爆竹とバイクのエンジン音、そしてヤンチャな子たちの笑い声が響きわたっていた。
職員室から先生たちが出てきて、外にいるヤンチャな子たちと追いかけっこを始める。その様子を面白がる生徒たち。そして、その一人に私がいた。
ヤンチャになりきれない大半の生徒たちは、鞄を改造したり、ボタンをあけたり、シャツを出したり、校則で許されていないくるぶしソックスをはいてみたり。見えないところで学校に抵抗した。
いじめもあった。その時の私は被害者でもあり、そして加害者でもあったように思われる。「思われる」というのは、当時いじめの加害/被害の当事者として怒られたことがあったわけではなく、後から振り返ると「被害者であり、加害者でもあったかもしれない」という意味である。ただ、その感覚が麻痺するぐらい、暴力は日常的なものだった。
私は子どものころから髪が薄かった。中学校では「ハゲ」と幾度となく呼ばれた。でもそれは「いじめ」ではなく、友達同士の「いじり」とされた。私は「うるせえ」とリアクションすることで、笑いが起きることを知っていた。そして言葉の暴力がエスカレートすると、手を出した。私に力があったわけじゃない。そういう「ノリ」である。暴力をふるわれ、暴力をふり返す。それが私たちのコミュニケーションだった。もちろん思春期の私にとって「ハゲ」と言われるのは苦痛である。人目をはばからず泣いてしまったこともあった。それでも私は関係を切らさないように、「ハゲ」と言われることを「いじり」として受け入れた。
一方「いじり」を拒絶する人たちは排除された。空気の読めない、通称KYな人たちとして。暴力をふるう/ふるわれるの関係性のなかにいることが、承認されることの条件だった。

救いもあった。中3の時、暴力とは違う、仲のいいグループができた。野球部じゃないのに「野球」が好きな、ただ何となしに集まれるグループ。居心地がよかった。時には手が出ることもあったけど、でも比較的穏やかに学校生活を送れたように思う。


高校生のとき。
地元の進学校に通った。そこは暴力でコミュニケーションを取らない世界だった。その代わり、勉強ができるかどうかはもちろんのこと、ノリがいいか悪いか、歌がうまいかどうか、彼女・彼氏がいるかどうか・・・色んなことが比較され、評価されはじめた。
音痴というのはなかなかに辛い。カラオケでは微妙な空気になり、笑われる。一番きつかったのは体育館で校歌斉唱のとき。毎回、隣のクラスの女の子たち2人が、私の横でクスクス笑っていた。私が音を外すたび、2人で顔を見合わせ、声を押し殺して笑いあう。名前も知らない、話したこともない女の子たち。それ以来、私は歌うことが怖くなった。「音痴な私でごめんなさい。」誰に謝りたいのかわからない。ただ、謝らないと認めてもらえないような気がしていた。
でも一方で私は演劇と出会った。身体が軽くなった感覚。はじめましての人とも、身体がひらかれ、承認された感覚。演劇に熱中していくのは自然なことだったのかもしれない。表現に傷つけられ、表現に癒される。そんな高校生活だった。


掘り起こせば書き切れない、恥ずかしい話はいくつも出てくる。
誰かに何かをしてもらったとき、出てくる言葉は「ありがとう」よりも先に「ごめんなさい」。相手に申し訳ない、という気持ちではない。何かをしてあげないと、できないと、私は他者に承認されない。そんな感覚がずっとあった。

釜芸にいると不思議と元気をもらえた。
表現を受け止める他者がいる。私でない誰かと安心して出会うことができる。一緒にごはんを食べて、笑う。ただそれだけで元気が出る。
釜芸で調査をして、いつの間にか元気になって帰る。なんでか分からないけど、不思議な体験だった。

私がかまぷーになった理由。
きっかけはテンギョーさんに誘われたから、だったけど、その前もお手伝いのようなことはしていたし、かまぷーになることに特段高いハードルがあったわけではなかった。ただ、誘ってもらえたことで、「ここに居てもいいんだ」という感覚は、より一層ついたような気がする。

「私、弱かったんだ」と気づくことができたのはそのあとのことだった。それまでは自分の「弱さ」を認めたくなかったし、「弱い」自分は承認されないと思っていた。でも、釜芸はそうではなかった。私はもっと自由だった。
「私、弱かったんだ」という気づきには、「弱くてもいい」という意味を込めている。「弱さ」を抱えた自分との出会い直しを経験する。

今の私だったら、小学生のときの自分にどんな声をかけるだろうか。「(あなたも含めて)どんな性であっても自由に生きていいんだよ」。そんなメッセージが伝わればいいなと、想像してみる。


いつも仲良くしてくれるおじさんは語る。

「みんな、底を経験しとるやろ。」
「だからしたみい。下から見るということ。みんな上から目線じゃなくて、世の中を下から見ている。ただそれだけです。」

下、見。なるほど、そうかもしれない。釜ヶ崎に生きる人たちの、上からの眼差しに抗うような、下からのささやかな抵抗があるのかもしれない。

このまちでたくさんの言葉をもらった。だから私は釜ヶ崎で出会った人たちの声に応答するように、「弱さの連帯」という言葉を投げてみたい。
「弱さ」は治療すべきものでも、克服すべきものでもない。ただ「弱さ」を抱えたままでいることが一つの抵抗のあり方になるような、そんな連帯のあり方。
「弱さ」を抱えた私が、私のままでいられるような、そして抵抗へとつながるような、そんなパワーを妄想してみる。

*¹ 坂本龍一の若い頃に似ているという理由でつけられたあだ名。釜芸ではなぜか定着してしまった。

*² 当時授業のなかで、性的マイノリティの人たちや「結婚」という選択を取らない人たちのことは前提とされていなかった。2022年の今の価値観でいえば、先生の問いかけはとても違和感のあるものであるが、その当時においては女性の社会進出や共働き世帯に対する理解がまだ十分ではなく(残念ながら、今も十分ではないが…)、小学生の私にとって重要な学習の場となっていたことは付記しておきたい。

*³ シスヘテロとは、シスジェンダーとヘテロセクシャルを合わせた言葉。シスジェンダーは、生まれたときに医学的に診断された性と、性自認が一致する人を指し、ヘテロセクシャルは異性愛者を意味する。いわゆるマジョリティ側の性を指す。

中山博晶(なかやまひろあき)
1996年生まれ。ココルームを訪れて3年半、かまぷーになってから半年。高校・大学で演劇部に入部し、俳優として福岡のアマチュアの演劇に出演していたこともある。今は九州大学大学院博士後期課程に在籍し、釜ヶ崎での文化運動に関心を寄せて研究している。日本学術振興会特別研究員(DC2)。専門は教育学、社会教育学。

<input type="date" value="2022-12-08">

現在、ココルームはピンチに直面しています。ゲストハウスとカフェのふりをして、であいと表現の場を開いてきましたが、活動の経営基盤の宿泊業はほぼキャンセル。カフェのお客さんもぐんと減って95%の減収です。こえとことばとこころの部屋を開きつづけたい。お気持ち、サポートをお願いしています