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私的プロレススーパースター烈伝㊱藤波辰爾

今回はドラゴン・藤波辰爾選手のご紹介です。藤波さんは中学卒業後、地元の自動車整備工場に就職しましたが、プロレスへの夢を断ち切れず、1970年に別府温泉へ湯治に来ていた、北沢幹之さんに直談判し、そのまま巡業について行き、下関体育館で許可されて日本プロレスに入門しました。

アントニオ猪木さんが日本プロレスを除名された翌日の1971年12月14日、藤波さんは木戸修さんと共に日本プロレスを退団し、夜逃げ同然で猪木後援会事務所に身を寄せました。そして1972年、新日本プロレスに旗揚げより参加します。

1978年1月23日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてWWWFジュニアヘビー級王座を獲得し、凱旋帰国します。

海外遠征でブレイクしたため、藤波さんは日本には帰りたくなかったそうですが、1981年10月にヘビー級転向のために返上するまで、通算52回に渡って同王座を防衛したました。

藤波さんはドラゴン・ロケットなど当時としては斬新だった飛び技、引き締まった肉体と端正なマスク、そしてゴッチ仕込みのテクニックで「ドラゴン・ブーム」を巻き起こし、従来のプロレスファンに加えて女性や子供のファンも獲得、日本のプロレス界に「ジュニアヘビー級」というジャンルを定着させました。

1981年10月にヘビー級転向のためジュニアヘビー級王座を返上WWFインターナショナル・ヘビー級王座を獲得[し、ヘビー級のチャンピオンベルトを手土産に凱旋帰国。

この年の10月、長州力さんとの抗争が始まり、さらに長州率いる維新軍との軍団抗争で新日本に黄金期をもたらしました。

長州さんとの一連のシングルマッチは「名勝負数え歌」と呼ばれ、1983年4月3日のWWFインターナショナル・ヘビー級タイトルマッチは同年のプロレス大賞ベストバウトをも獲得しました。

今もドラディションで現役を続行している藤波さんは往年とそう変わらない肉体を維持し、年齢を感じさせないファイトで多くの観客を魅了しています。

藤波辰爾


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両親2人の介護を一人でやってます。プロレスブログ「せかぷろ」&YouTube「チャンネルせかぷろ」主宰。現在ステージ2の悪性リンパ腫と格闘中。