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番外.私の話

お久しぶりです。
しばらく旅行へ行ったり、旅行の準備したりと色々とゴタゴタしててなかなか書く時間を設ける事ができませんでした。
というのはただの言い訳で単純に書く気が起きなかっただけなんですが、笑
お待たせしてしまった方がおられたら申し訳ございません。今後は不定期となるかと思います。

ふと突然ではありますが、ガッツリした私の話をしようかと思います。
プロフィールでは私の話はしないみたいなカッコつけた事を書いたような気もしないですが、今の私はガッツリ話したい気分なので書き残そうと思います。

実は私自身の話を書くのはこれが初めてではなく、一年ぐらい前にYouTubeで口頭で話した事があります。
ちょっと悲しい気分になっちゃうかなって思ったのと、必要ないなと言う判断でチャンネルごと削除しました。
その時はそう思ったから削除しました。

しかし今更ながら、やっぱり私の経験を書いた方がいいのでは?
と言う風に思うようになり、ここに残そうかなと思った次第です。

前置きが長くなる前に本題に入りますが、自分の本音を家族にすら一ミリも表に出さなかった私が、私の想いを伝える事を人生を通して行うと決めた経緯と理由を書こうと思います。

とても長文ですので、興味があり読んでくださる方はよろしくお願いします。

まず初めに私がどんな人物だったかを紹介します。

基本的に自分の思っている事は外には出さない人でした。
何故かというと、それによって人とぶつかったりして嫌われたり喧嘩になったりするのが嫌だったからです。

自分が許した人以外は当たり障りない会話しか出来ませんでしたし、子供の頃は相手の意図や会話をどう返したらよいかが全くわかりませんでした。
高校生・社会人になってやっと当たり障りない会話が出来るようになったぐらい会話が苦手でした。
子供の頃は話さなかったと言うよりは話せなかったと言うのが正解です。
だから周りからは大人しい子供(人)と見られていました。

家でもそんなに口数は多い方ではなかったですが、
感情は湧いてくるので家の中だけはそれなりに表現できていたかもしれません。
しかしある事をキッカケに本音を表に出すことを一切やめる事にしたのです。

それは当時の数少ない友達との出来事です。
その時は小学校3・4年生ぐらいの頃だったと思います。

友達とスーパーにあるガチャポンをしていました。
友達がガチャポンを回すだけのお小遣いが尽きた時、私の財布の中には千円が残っていました。
この千円は友達と遊びに行く前に、母が何かあった時用として渡してくれたお金でした。
基本これは使わない約束だったと思います。(その約束をしたかは覚えていませんが、使っちゃいけないだろうとは思っていました)
その千円でガチャポンに使ってしまったのが、ことの始まりです。

その千円に気づいた友達が、その千円を使っていいかと聞いてきました。
当時子供でしたので、目の前に欲しいおもちゃがあり、ゲットするチャンスがあるなら聞いてきても不思議ではありません。
私はこのお金は使ってはいけないと僅かに理解しながらも、友達に使っていいよと答えてしまいました。

帰宅後財布の中身を見た母は、当然千円が無い事に気が付きます。
千円が無い事を問いてきた母に私が説明する訳ですが、話下手の私が上手く説明できるはずがなく、
そして母の剣幕が怖くてなかなか説明が出来ず、ちゃんと説明出来ぬまま私は泣き出してしまい、
母は友達が私から無理やり千円を取ってガチャポンに使ってしまったと勘違いし友達の家に行く事になりました。

母経由で相手の方へ事情を話されガチャポンのおもちゃを頂くという事で話はそれで終わりましたが、
私自身がちゃんと説明出来ず、まるで友達が悪いという展開になってしまった事に対する罪悪感。
友達にこのお金は使えない事をちゃんと伝えず、その場の流れで嘘をついてしまった事。

全て私がちゃんと話せばこんな事には…、と子供の私にとっては大きな傷となりました。
実はこれと似たような事を同じ友達に、私はまたやってしまいます。

その時の友達の家から帰る車の中で私はこう誓いました。
「友達を作るのはもうやめよう。上手く説明できないのだから、ただトラブルを起こすだけ。私と関わると友達が不幸になる」と。
そしてそれ以来、家族には友達の事や自分の事を話すのを一切やめ、人と関わるのを極力避けるようになりました。
(元々話してませんでしたが、特に母には絶対言わないと決めました)

今にして思えばですが、ちゃんと正直に話すようにしようと言う反省ではなく。
「トラブルを起こしたくない」と言う怖さの方が勝ち、その根本から経つと選択をする癖は、この子供の頃からあったのだなと気づきました。

この根本から経つ癖が私の話下手で人間嫌いに拍車をかけるようになります。

コミュ障のまま育った私は高校生の頃には、すっかり仮面を被るのが上手くなってました。人間嫌いがプラスされて。
コミュ障とは言いましたが、相手の些細な感情を読み取れてはいました。
感情はわかるけど、どう対処したらいいか分からなかったり、わかったとしてもそれをやるにも勇気がいるし、分かってたのに出来なかったと一人後悔したりして、その四苦八苦を一々やるのに疲れてしまい人間嫌いになっていました。

私にとって一番辛かったのは、分かっているのに出来ないでいるのが辛くなり、知らぬふりをしようとする自分の薄情さに目を向けない自分が嫌いで仕方がありませんでした。
これに関してはつい最近まで苦悩していました。

でもこのコミュ障人間嫌いのままでは生きていけないと思った私は、大学に行くのは止めて就職する事にしました。
就職は自分へのケツ叩きと早く自立したいという思いからそう決断しました。

社会人になって2・3年は自分を変えようと頑張っていました。
人間嫌いを克服する為、人と積極的に接しようと努力しました。
一時的には楽しかったのですが、二十歳になった年の4月1日に両耳の突発性難聴を患いまして、それ以来眩暈と難聴と耳鳴りの日々で疲れてしまい、人との交流を頑張るのを止めました。
当時は直感的に頑張りすぎたと思いました。
ただこの突発性難聴や他の症状は薬による副作用で起きていたものでした。
それが分かったのは、症状がだいぶ治ってからでした。

耳鳴りと難聴は通院で一ヶ月ほどで治りましたが、眩暈は相変わらず治らず、そして呼吸困難も起きるようになりました。当時はまだ薬による副作用だとは気づいていなかったので、その状態でも仕事は続けていました。
最初こそは休みながら仕事に行きましたが、段々休むのが申し訳なってきて多少の眩暈と息切れの状態でもその状態を隠しながら仕事をこなしてました。

数年経ってから薬による副作用だと気付き、それからは呼吸困難の症状は出なくなりましたが、眩暈だけは癖になってしまいました。

強いストレスを感じると眩暈を感じるようになりました。
ある意味分かりやすくなり自身のバロメーター代わりになりました。笑

突発性難聴の件で休みがちになり周りに申し訳ないという気持ちを経験した私は、先ほど話したように多少の眩暈程度では休むのは止めました。
当時はまだ呼吸困難も起きていましたが、それが起きていようが定時まで頑張っていました。
まだ耐えれる程度だったからです。

身体的症状が軽度になってからは、仕事に対して積極的に本気モードになりました。
今まで本気モードじゃなかったんかい、と思われるかもしれませんが、仕事は真剣やっておりました。
何に本気になったのかというと、仕事の改善の事を本気で取り組むようになったのです。
それまでは、仕事の改善のアイディアはあっても口にはしてませんでした。
それをやるとめんどくさいのが分かってたからです。
元々人間嫌いだったので人との関わりが多くなるのが嫌だったのです。
言い出せば自分で手配等しなければならなくなるので腰が重かったです。
人間嫌いを克服しようと2・3年頑張っていましたが、それだけは手を付けてませんでした。

ここから先が、私にとって一番辛い時期に入ります。
段々、精神的におかしくなっていきます。

この本気モードのスイッチを押した瞬間から、私は自分の事を止める事ができない状態に陥りました。

まず妥協が出来なくなりました。
絶対にミスが起きない仕組み作り(作業手順)にこだわり続けました。
自分が出来る事は大体を請負い納期に間に合わせる様に残業するという強引な事をしてました。
人には絶対怒らないようにいてました。
仕事をお願いした人のミスは私のミスと反省してました。
ミスが起きる度作業手順を見直して、どんな状況でやってもミスが起きない作業手順になるように、何回もアイディアを巡らせました。それは永遠とありました。

勤め先は繁忙期という忙しい時期があり、忙しい時期は夜の10時までやることは結構な頻度でありました。最長で朝の2時までやったこともあります。
それが当時の私は当たり前だったので、やめる数年間ぐらいの間は8時で終わることが多くなりましたが、それでも繁忙期と言ったら10時までという印象があります。
それがピークで1週間10時で上がり、徐々に緩和して繁忙期と言われる期間は合計一ヶ月半ぐらいは続きます。

幸いにも先輩方がいい人ばかりで、チームでこなす仕事でもあったのでお互いに声を掛け合いながら協力して、チーム皆んなの残業を均等にするという、意識がある人たちばかりでした。
ただこの優しさが私にとっては苦痛でもある事だったのです。
私は人に仕事をお願いするというのが大の苦手でした。

何故苦手だったのかというと
まず一つは、「仕事は全て自分で把握しておきたい」から。
人に仕事を任せるという事は自分の知らぬまま事が進んでしまう事はあり、報告してもらう事もあるけれど、自分がやってないので頭にインプットが出来なくなってしまう。
それによって仕事の進み具合の把握ができなくて混乱してしまうというのがありました。

それと仕事をお願いする人は普段やってない人の為、「ミスが起きるのでは?」というのが大きかったです。
自分でやってないので、ミスが起きてるかどうか判断が出来ない仕事だったので、完全にやった人を信頼するしかありません。
これが私は出来なかったのです。

一応2段階3段階ぐらいでミスが起きないような手順ではありましたが、毎日夜中近くまで作業してると注意力も落ちてきます。
それによって完全にはミスは防げません。それを私はいつも危惧してました。
なので仕事をお願いしても、出来上がったものを再度全てチェックするか、そのまま次工程に回すかで、悩んだりしていつも神経使ってました。
次工程でも前の仕事のミスの発見をする仕組みにはなってはいましたが、なんせ繁忙期の為その中で次工程の人に負担をかけたくないというのも強くありました。
とにかくミスが起きるのが嫌だったのです。

もう一つは上記のように完全に信頼出来ない為、人にお願いするという作業自体が辛かったのです。
上記のような不安が駆け巡って、本音は「お願いしたくない気持ち」と「自分の負担を減らしたい気持ち」のせめぎ合いで、毎回お願いするという声かけ自体が辛かったです。しかも相手は良かれと思って助けてくれている為、それが余計に辛いものでした。

当時私が請け負ってた仕事は繁忙期になると膨大になる為、必然的にお願いする機会が多くなります。「チーム皆んなの残業を均等にする」という一見すると協力的でいいチームのように感じますが、当時の私に取ってはプレッシャーでしかありませんでした。

均等になるようにするという事は、絶対自分じゃないと出来ない仕事をさっさとやらないといけない、もしくはそれを他の人にも出来るようにしないといけない訳です。その為に作業内容を新たに考えないといけなかったりと、新たな問題点が次々に出てくるのが嫌でした。
自分でやる分にはそんな事しなくてもいいのにという気持ちでもいました。

こんな事が起きるのは、私が人への信頼の大切さを分かっていなかったからです。
「自分で全て解決しようとするな、仲間と共に解決する大事さ知れ」というメッセージでもありました。

この期間の私はひたすら皆と協力するという大事さを学びました。
これはだいぶ後に気づくことではありますが、当時の私は「皆に言ってもこの大きな問題は解決しないだろう」と思っていました。
「全て私のアイディアで解決できる事だけど、他の人はきっとやらないだろう。他の人は私以上に良いアイディアは浮かばないだろう」という何とも傲慢な考えを心の奥底で思っていました。
これは人を信頼していないからです。
他の人の力を見くびっていた訳です。

確かに他の人には出せないアイディアを出せていたかも知れない、けれど他の人のアイディアと組み合わせて失敗を繰り返していけば色々な事が解決してたかも知れません。
流石の私もあまりに強情な私自身に疲れて、他の人の意見を取り入れるようになりましたが、これがまた次の苦難となります。苦笑

まだ私は失敗するのが怖かったのです。
ここから私はさらにおかしくなっていったように思います。

私は「人の意見も真摯に聴こう。一見ダメかもと思っても一回やってみるということをしよう。それから考えよう」ということにしたのですが、それでもミスしない仕組みにこだわり続けました。

何が私をおかしくしたのかは、一言でいうのな「完璧主義」な私になってしまいました。
完璧主義なところは上記にも多々現れていますが、ここに「人の意見」という外部の情報も加味して「完璧」を実現しようとした訳です。
この段階に入る前は自分の内面の満足ばかりだったのですが、今度は内面と外の世界の満足にこだわるようになりました。

つまり「自分も満足し、周り皆んなも満足する。全ての人が満足する」そんな世界を目指すようになりました。

今だから言えますが、これはすごくエゴの塊だったのです。

結局やっている事は上記とあまり変わらないのですが、他の人の意見を積極的に取り入れることによって、心と思考が分離していくのが加速します。

他の人の意見の全てが自分にとって、納得いく訳ではないのです。
でもやってみない事はわからない。とりあえず受け入れようという事をしてました。そしてその期待に応えようとしてました。

先輩の意見も取り入れる、でも自分の意見も通したい。
どうすればそれが実現できるか、どうしたら完璧なものができるか。
それができるまで諦めることはありません。
ずっと可能性を追い続けてました。
心のどこかで「もうやめよう」とも思っていてもやめませんでした。
疲れていても「もう休みたい」と思っていて諦めませんでした。
ひたすらそれをやり続けたら、最終的には精神病を患いました。

精神病は自分の本当の気持ちを無視し続けることによって起きる病気です。

私は完璧主義が極まっていつの間にかうつ病の様になっていました。
当時は鬱だなって気づいていても、病院には行きたくありませんでした。
それによって仕事ができなくなるのが嫌でしたし、次就職できるかも自信がなかったからでした。

勤め先は繁忙期と閑散期が激しい会社で繁忙期はうつ病の症状が色濃く出て、閑散期に落ち着くという事を繰り返してました。

繁忙期の時はちょっとしたミスが起きる度、何かちょっと怒られる度、涙が出てしまい会社の個室のトイレで一人泣いていました。
いつも泣き出すと止まらなくなり、途中から過呼吸が起きるようになり苦しくなって涙が止まり、少し落ち着いたら仕事に戻るという様な感じを繰り返していました。
閑散期で何とか自分の精神を休めて、何とか保っていた状態でした。
それが少なくとも4年は続けていたかと思います。

何度も過呼吸が起きるので過呼吸の止め方を覚えるようになりました。苦笑
過呼吸は沢山息を取り入れる事によって起きるので、途中で数秒息を止めるとその後落ち着かせる事が出来ます。
止まらなくてもそれを繰り返すと段々治まっていきます。

帰りの車で音楽を聴きながら心を癒していましたが、その音楽を聴く気力も湧かなくなるようになり、いよいよ無気力状態が常に出るようになりました。
仕事をやめる直前の一年ぐらいは涙を止めても仕事に戻ると涙が再び出る様になり、仕事に戻る事ができなくなる様な事が何回か起きる様になりました。

今思えばようやってたなと思います。笑
そしてこんな状態になっても私は完璧主義であり続けるのをやめませんでした。
そんな自分を見てこんな状態でも仕事を続けるのかと呆れたような感覚もありました。
それが原因であると理解しながらも、それでも目の前の達成したい目標を実現したいという思いの方が強かったのです。
いやどちらかというと、それがなくなった時自分はとても無価値な存在になってしまうという恐れの方が強かったかも知れません。
正直仕事を辞めたいという気持ちは強かったのに辞められませんでした。

当時の私は泣いてしまう時に自分自身を落ち着かせる為に、ある言葉をかけていました。
「大丈夫」という言葉です。
この言葉をかけて落ち着かせていたのですが、ある時からその言葉は使えなくなりました。
「大丈夫」と自分を落ち着かせるようにすると、すぐに心の底からかあるいは頭の右上あたりから、「大丈夫じゃないよ」という言葉にならない様な感覚を感じ余計に涙が止まらないという事態になりました。
これを感じた時もう限界なのだなと思いました。

それからすぐだったかしばらく経ってからだったか、もう忘れましたが私は仕事をやめる事を伝えようと決めました。

しかし私は中々言い出すことが出来ずもたもたしていたら、ある件が起きます。
内容は非常にプライベートな事なので書きませんが、私はその件の被害者のような立ち位置でした。
その被害者の立ち位置を利用して私はやっと仕事を辞める事ができたのです。

最初に辞めると上司に報告しましたが、やめさせてもらえませんでした。
その為、ある件の事を先輩に相談し、そして辞めさせてくれない事も私は涙を流しながら伝えました。
先輩たちも私に辞めて欲しくないと言われましたが、私はその件の事を盾にして辞めさせてもらいました。

正直その件がなければ私は辞めれずにいたかと思います。

先輩方の協力のもと辞めれる事になってからは、すごく体が軽くなりました。
こんなにも軽いものなのかと思いました。

辞めれるとなってからは、これから何をやっていこうかとチャレンジ意欲がたくさん湧いてきて毎日が楽しかったです。
自由になった私はこんな一面もあるのだとその時初めて気づきました。
積極的に動くのが嫌いだったのに、それが嘘なのかのように意欲的になり自分でもびっくりしました。
この時はフリーでやっていくと決めていたので、色んな事にチャレンジしました。

しかしそれは長くは続きませんでした。
その時私はカバンの職人さんになろうと、自由に時間を決めて通える学校に通っていました。
その講師の方が雑談で話した事が私の気持ちを変えました。
その内容はお客さまに挨拶にしにいくという内容でした。

この時の私が思った事は
「フリーになってもずっと人に縛られ続けなければならないのか」
という感じの事を思いました。

商売なのですから、お客さまを大事にするのは当然当たり前のことなのでしょう。
そうわかっていても、また人を気にして動かなければならないのかとか、今度はお客さまのご要望に応え続けなければならないという考えに至り、その時私はまた自分を止めれるだろうかとも思いました。

前職はとにかく全ての人に応えようと完璧になりすぎた結果ああなりました。

これを今度は常に毎月の生活費を維持しながら、新しいものを作りながら、お客さまのご要望に答えないといけない。
お客さまのご要望に沿えなかったら、生活が維持できない。
それをこれから一生やっていかなければならないのか。
その様な状況になれば私は休む時間を作らないだろうと思いました。

仕事が常に横にある状態にしてしまったら、休む場所など無いに等しい。
そう思うようになってからは、私は再就職をするわけです。

再就職先の話まですると長いので省きますが、結局私は再就職したものの強制的にストップをかけられます。
適応障害によるうつ状態となりました。

ここから私の内面の変化を起こす事が
一気に流れ込んでくるようになります。

かなり長文となりました。
ここまで読んでくださる方々ありがとうございます。
まだ続きます。笑

私は最初発熱と謎の胸の痛みによって会社を休む事になるのですが、そこの内科の先生に精神科を勧められてしまいます。
私は精神科に行きたくありませんでしたが、正直隠しきれなかったので、半ば諦めて素直に受診することにしました。
仕事にはすぐ復帰したかったので、通院と薬を飲み仕事に行きながら直そうとしてました。
が直前で母が長期休暇をもらう方向にした方が良いともう一度診療室に入って相談する事になりました。
先生も休暇はとったほうが良いと勧めてもいましたので、ここで初めて私はまた仕事を辞める事になるかもしれないけれど、長期休暇をする事にしたのです。
この時完全に諦めたような、いや観念した感覚でした。

この選択が私の価値観を変える大きな選択をしたと後でわかる訳です。

趣味もやる気ないし、カバンも作り気がない私は、動画を見る事しかありませんでした。
もういっそのことこの時間を楽しもうとばかりに、私はひたすら自分の好きなジャンルの動画ばかり見てました。
色々見尽くしてしまって見るものがなくなった私はオカルト系の動画を見るようになります。
当時私がよく見てたのは古代の遺跡だとか、謎の文献だとか、オーパーツだとか私は半ば胡散臭を感じながらも何故か惹かれる部分があったのでエンタメとしてよく見ていました。

そして私はある動画にたどりつきます。
その動画は未来人の事を考察している動画でした。

未来人とは少し前にネットの掲示板に自らを未来人だと名乗り、東日本大震災を当てたことで話題になった様な記憶があります。
未来人と検索すると色んな人の名前が出てくるかもしれませんが、確か「山に登れ」を暗号で間接的に伝えようとした人物のことです。

その人物のことを見聞きした覚えが昔あった為、その未来人の考察動画が気になり見ることになります。

その動画の作成者はとても中立的な考えで、一方的な考えを伝えるような内容を避け、こういう不思議系に懐疑的な人の立場の意見も取り入れるようなそんな動画でした。
私はこの動画を見た時、本当に未来から来るというような事はあるのかも知れないと思いました。
そうだと思えるような部分も少しあったからです。

それでもまだ私はエンタメ要素として見ていました。
もし事実そうであったとして、理屈がようわからないし科学で証明されてないしという気持ちもありましたが、それでも私を惹きつける何かがありました。

それからその投稿者の動画を見る様になりました。

次に見た動画で私はエンタメ要素として見れなくなりました。
それは子供の不思議体験の動画でした。
それだけでなくその子供がとても達観しすぎている事。
とても子供とは思えない言動で、100年生きたお爺さんかなと思えるほど達観した子供の紹介でした。

その子の口から宇宙の構造なども話していて、この時私は初めてこれは本当のことなのだなと思いました。

そしてこの投稿者を通じて、界隈では有名なチャネラー(宇宙人)を知ることになります。
この方との出会いが私の大きな傷を癒すことになります。
ここが私にとってはすごく大きな影響を与えました。

ここまでは私は正直に申すと、「そうは言っても私とは関係のない世界のことだな」というのがまだありました。

面白いけど、けど、今の私を変えようとは至らなかったです。
結局は関係のない事、あくまでただの知識、程度の認識でした。

しかし出会ったチャネラー(宇宙人)さんの朗読の動画を見て聴いた時、
私は大号泣をしてしまいました。
最初の勤め先でよく過呼吸に陥っていた頃以来の過呼吸もきました。

当時は私はなぜ過呼吸になるまで涙を流しているのかがわからなかったです。
その朗読の内容の言葉の意味を読んだからではありません。
その朗読の言葉を通じて、ある言葉をきっかけに、そこからわかる意図を理解した事によって私は大号泣しました。

その内容は、「何故ならこの世界は愛と光の世界で出来ている」でした。
その言葉の意図の全てかは分かりませんが、私はこう理解しました。

「自分を傷をつけてまで人の為に頑張る必要はない。何もしてあげられなかった事が、何も貢献できなたかった事が、あなたの価値を決めているのではない。本当は休みたいという気持ちや、仕事でもやりたく無いという気持ちはあって当然なのだ。何故ならこの世界は愛と光の世界で出来ている。あなたが身を粉にして頑張らなくたって、貴方が送りたいと思う愛は届ける事が可能な世界なのです」

このような言葉がきた訳では無いのですが、今思い出せるだけ書くと、この様な感覚のメッセージを受け取りました。
朗読を聞いている間はとても辛かった時の想いが蘇って癒されている感覚でした。
この時確実にこう思いました「あの時の感覚は合っていたのだ」と。

あの時の感覚というのは、全ての人に答えるべく完璧にこなそうと頑張っていながらも、頭の片隅では「そこまでやる必要はない」だったり「もっと休んでもいい」「もっと自分を大事にしてもいい」という感覚でした。

しかし当時の私は、それでも「人の為に頑張るのが良いことでしょ?」という考えでした。
それはただのエゴだったのです。
「人の為に頑張る」=「価値のある人」「良い人」「人間としてそうであるべき」
それが愛であるという様に結びつけていたのです。

この朗読の動画で言っていた事は
「ただ自分のありのままでいる」=「すべて生きているだけで価値ある存在、それが本来の愛である」

何故なら私たちは存在自体が愛で光の存在であるからなんです。

等価交換して価値を決めているのではないのです。
そんなことしなくても、価値ある存在なのです。

それをこのチャネラーさん通じて教えて貰いました。

これは今だから文字にできるのですが、当時は正直まだよく意味もわからなかったです。
でもすごく自分の深い傷が癒やされたのはわかりました。
当時わからないのは当然です。
何故なら知識が追いついていない為、自分の頭で言語化ができない為、理解が追いつかないのです。

この動画をきっかけに、私は宇宙の法則を学ぶようになりました。
その宇宙の法則を知ることで真剣に自分と向き合う事になります。

これだけ癒やされはしましたが、このチャネラー(宇宙人)さんを通じて宇宙の法則を完全に信じるにはなかなか至りませんでしたよ。笑

だってとても信じがたい事ばかりでしたし、本当かよ〜と内心思ってたところもありましたが、私は強烈にメッセージを受け取っています。
死んだら誰も証明できない事なんだから、一旦受け入れてみることにしようと努めました。
結局人智を越える領域なのだから、疑ってもしょうがないと思いました。
何より銀河がいくつもあると科学でわかっている以上、この地球で表に出ている情報以上の知識・科学を持った存在がいても、確率的におかしくないと思っていました。
確率論的に言ってあり得る話でしたから。

じゃあなぜ地球に宇宙人が現れないのかは、実は説明できます。

例えば、とても文明の遅れた種族がアフリカの方にありますよね。
科学を全く知らない種族の前にいきなり文明が発展した種族が現れたら、怖くなって襲いかかってくると容易に考えつきます。
何故なら科学を知らないから、怖くなり排除または逃避しようという心理なるのです。
だからその種族と交流しようと思ったら、こうするそうです。
まず安全な場所から、その種族の好きなものや馴染みのあるものを遠くから渡すそうです。
例えば海から浜辺に着くように流すといった感じで。
それを繰り返し自分達が怖い存在ではないということをアピールし、もう敵意がないと判断して交流を図るそうです。

実はこれと同じことを宇宙人は行っています。
「遠くの安全な場所から贈り物」というのは、「この宇宙からのメッセージをキャッチできる人物からのメッセージ」なのです。
宇宙人は攻撃されません。メッセージを届ける人も多少人から非難されるかもしれませんが、あまりにも突飛なので興味のある人しか注目されません。

そして宇宙人は自分たちと対等の価値ある存在だという認識を持って交流します。
それは精神性が向こうのほう発達しているからなんですね。
だからと言って地球人が劣っているという訳ではないし、向こうの宇宙人の方が優秀であるという訳ではないのです。
ただ向こう方が発達しているという事実だけです。
精神性が向こうのほうが発達しているから、余計なことなどしないのです。
だから急に現れて怖がらせるような事はしません。(例外はあります、笑)
今は地球人の精神性が上がるのを待っている状態です。

話が脱線してしまいました。

私の話はまだ続きはあるのですが、重要な部分は書き記していますのでこの辺で終わらせようと思います。

冒頭で記した様に
「私の想いを伝える事を人生を通して行うと決めた経緯と理由を書く」と
お伝えしましたが、経緯が長くなりすぎました。笑

でもとても重要な事だった事と私の体験を共有した方が誰かのきっかけになるかもと思い、書き記しました。

まだ「理由」の方がちゃんとお伝えできてませんが、この後に残して締めようと思います。

私は心のどこかで「めんどくさい」というのが勝っていたのです。
何がめんどくさいのか、それは「自分を変える事にめんどくさい」という感情です。
何故ならめちゃくちゃ労力のいる事です。
継続しなければならないです。
失敗するかもしれません。
それでは生きていけないかもしれません。

なら勝手に誰かが自分の手を引いて導いてくれる方が楽。
ただ流れるように生きる方が楽。

そう思っていました。
しかし「今も辛いし、大変で、面倒臭い」と思った時、
結局どっち行っても同じじゃないかと思うようになりました。

どっち行っても大変な思いするなら、自分の楽だと思える方を選ぼう。
そう決めました。
いい加減自分で自分を変えるというめんどくさい作業に覚悟を決めました。

だっていつまで経ったて、自分は変わっていかないんですもん。
いつまでもうじうじもたもたしてても、自分は変わりません。

誰かが自分を変えてくるのを待っていても、そんな人物は現れません。
自分が自分を変えると覚悟を決めるまでは。

全ては自己責任なんです。

自分を幸せにする選択をするかしないかは自分の選択に全て委ねられます。

でもその自分を変える選択を選べないのは悪い事でもないのです。
何故なら必ず「飽き」が来ます。
本当に飽きます。
その時まで無理に選ばなくても私は良いと思っています。
しかし、心の奥底で変わりたいと思っているのなら、少し無理をしてでもそちらの方向に向く練習をすることをお勧めします。
その時点で変わることを決めなくても良いです。
変わると決める、そう思えるタイミングで決めるのが一番楽かと思います。

そして今だからわかる事ですが、
「勝手に誰かが自分の手を引いて導いてくれる」
「ただ流れるように生きる」
これがまさに本来の生き方なのです。

「誰か」というのは物理的な誰かではないです。
もっと意識が広がった高次の自分の事です。

そうだと気づけたから、私は自分ありのままを表現して出していきたいと思ったのです。

その生き方で良いんだと気づけたからです。

表現できた時、私はすごく幸せな気持ちになります。

それは誰かに見て欲しいからなのではなく。
ただ表現する事が私の幸せです。
それが必要な所に届いき笑顔になってくれたらいいなという気持ちで私は書いています。

私が書く言葉は全ての人向けではありません。

そういうのは不可能だと散々痛い目に遭いましたから。笑

なので違うなと思うことは素直に忘れてしまって良いのです。

これ良いなと思ったら、それを素直に受け取ってくれるだけで良いのです。

私が書いているものは、手紙の様なもの。
どこに行くかわからないですが、それは読んだ人に委ねます。
解釈も読んだ人に委ねます。

人が人を変える事など不可能なのです。
最終的決定は自分だという事に気づければ、あとはやるか、やらないかだけなんです。

ここまで大変長い長文を読んでくださり
誠に、誠に、ありがとうございます。

この記事を購入してくださった方々
ありがとうございました!

また何処かの記事でお会いできたらと思います。
それではまた。

執筆者:千尋ゆか

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