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父親を憎む姉の謎

統合失調症の姉は、父を憎んでいる。

すでに父は3年前に他界しているが、
「私がこんなに苦しいのはすべてオヤジのせいや」
と今でも毎日のように口にする。

それが私にとっては長年の大きな謎だった。

なぜなら、私から見た父はかなり穏やかな人で、無口だけどいつもニコニコしていたからだ。

ただ、子育てに積極的に関わる人ではなかったので、関係としては薄い。

ほとんど怒られたこともなく、私としてはその大きな存在がいるだけで心が安定していたように思う。

ところが、姉にとっては違うのだ。

父が姉と私に対して違う接し方をしたわけでもない。

なんだったら、父は姉にだけ誕生日プレゼントをあげていた。

私は父と誕生日が同じだという理由で、父からのプレゼントはなかった。

けど、母親からプレゼントをもらっていたし、誕生日が同じという連帯感が強くて特に気にならなかった。

だがそんなことは一切関係なく、姉は父が亡くなってもなお、人生のすべてを父のせいにするのだった。

以前は、私はそのことに腹を立てていた。

しかし、姉のことをリスペクトするようになってから、「姉のいうことには必ず一理あるはずだ」という前提でなにもかも聞くようになった。

「父のせい」とは何を表しているのか・・・と考えるのだ。

以前、私が自然療法士をやっていた頃に、何人か統合失調症の方の相談を受けていたのだが、実はその方達の中でも父親を嫌悪するパターンはあった。

インスタで漫画を描くようになり、当事者のご家族からメッセージをいただいてやりとりをしている中でも、やはり「父親を嫌っている」という話を聞いた。

数が少ないし、そうでない場合もあるけど、ここに何かあるんじゃないかなと直観的に思っていた。

それで私なりに考えていった。

父親という存在が象徴しているのは「理性」であり「社会」だ。

理性は社会で生きていくために必要なものだ。

そして、統合失調症は理性がぶっ飛んだ状態に見える。

そうなると社会には適応できない。

理性のフタが外れて、その奥底から理性では理解不能なものが溢れ出る。

でも、中沢新一さんの「レンマ学」によると、統合失調症は理性の欠如ではなく、理性の過剰なのだ、とあった。

これにはうなった。

姉の人生を思うと、そう感じるからだ。

小さな頃から周りについていけなくて、すごく緊張して、なんとかしようと姉なりにいつも必死だったと思う。

遊びも勉強も、姉のペースで進めさせてあげられるような環境があればよかったが、50年近くも前のことだ。

「なんでちゃんとできないの!?」

しっかり者の母親からも先生からも同級生からも、そんな視線、言葉を全身で浴びてきただろう。

また、妹の私がそれなりに器用だったもんだから、余計だったと思う。

理性過剰の積み重ねで、理性がぶっ飛んだ。

そう考えると、納得なのである。

「オヤジのせいで私はこうなった」は、「社会のせいで私は理性がぶっ飛んだ」なのだ。

姉の言葉は表面的には辻褄が合っていなくて、もういい加減にしてくれと思うようなものなのだが、こうして味わってみると真実が見えるような気がしてくる。

姉の言葉は魂の叫びであり、今の世界へのアンチテーゼのように私には聞こえる。

だから、また訳のわからないことを言ってる、と決めつけずに、しっかり受け取って味わっていこうと思う。

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