なにものかであることを求めてくる社会

久しぶりに書くな(笑)

これをはじめたときは「自分を理解してもらいたい」、「わかってもらいたい」という欲求で始めたんだろうと今では思ってる

『自分がどんな人間なのかを知ってもらったほうがいろいろ便利だから始めた』みたいなのは所詮後付けだろう。

最近、人との交流が減った。環境的なものもあるけど内省的な変化もたぶんある。その中である友人のFacebookの投稿を見て人格について考えた。

人格とは二種類で構成されていると僕は思う。

一つは、コーヒーは苦くておいしいとか、この表現好きといった何かに触れたときに感じる人格。一般的に言う本当の自分とは、こちら側を指すんだろう。自分探しの旅というのは、旅をして旅先で触れたもの媒体にして自信を理解する行為なのだろう。

一方、もう一つの人格とは他者のなかに存在する自分を組み合わせて形成される人格。仕事ができる自分、成績がいい自分、能力が高い自分など何かと自分を天秤にかけてある一定の水準より高いとか低いとか評価できる側面をもつものはこの人格に該当する。

 学校や社会は前者の人格よりも後者の人格を重要視する。だから僕たちは他者がいる前提で成り立つ人格が大切なのだと錯覚する。 

 他者の中に僕という人格を見出し、生きることは何かにとらわれる(能力が高いほうがいい、とか、愛想があったほうがいいとか)。それは、視野を狭くし選択肢を減らす。きっと自由に生きるとは全く別の方向に状況を進ませる。そんな生き方を否定はしない。きっとそう生きたほうが得るものは大きい(俗に言う、成長ができる)。

 けれど僕は自由に憧れる。

 自分の感性を大切に生きることで自由な生き方に近づけることはできるだろうと僕は信じている。


だいき

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