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ピアに位置づけられる高校生にも関わらずいじめがなくならないわけ。

他者の価値感の違いを受け入れることができるようになり、そんな他者を尊重することができるようになるといわれている高校生の年頃。


しかし、

発達心理学でいうところのピアに属する年頃ですが、

他者の価値観を受け入れることができず、

いじめに発展するケースが多いのはなぜでしょうか。

私自身、この点については、高校時代を振り返ってみて深く深く考えさせられました^ ^

以下は、あくまで私の個人的な意見ですので参考までに。

☆一つ目は、自分がピアに属し、他者の考えや価値観が自分とは異なっていても認めることに対しなんの違和感もなかったのですが、他者(当時のいじめっ子達)は、まだギャングあるいはチャムぐらいの枠に属し続けていたからかもしれない点です。

毎日のようにいじめられながらも、自分の頭の片隅にはすごく冷静な思考の自分もいて、いじめっ子達は、グループで秘密を共有することや、持ち物をお揃いにしたり、トイレまで常に行動をともにしたりしていたなあと感じましたΣ(-᷅_-᷄๑)

そして、いじめの主犯をとりかこむように、楽しく談笑しているのですが、ふとした瞬間に目の奥が寂しそうに変わる子達が今でも忘れられません。

また、主犯の命令や意見は絶対で、違う意見や行動を取りにくい雰囲気がビリビリと伝わってきました。


ようするに、行動も言葉もみんな一緒の呪いから抜け出すと、今度は自分がいじめられてしまうという思春期史上最大の恐怖があったのでしょう。


☆二つ目は、成長の証に親という安全な基地から少しずつ離れ、親子で共有し難いような思春期特有の身体の変化と複雑な気持ちを、仲間同士である友人という基地内で共有し合い、不安を満たそうとするため、その世界が日常の8割9割を占めると思い込むからです。

外に趣味や生きがいの軸足があればまだ気持ち的に良いのですが、高校生でしたら、義務教育ではないにせよ、学校へ毎日通う必要があるので、どうしても視野が狭くなりがちです。

通信制でしたら、毎日通学する必要はないんですけどね。

自分らしさが(仮)の自分らしさとして、基地内の友人の前で振る舞わねばならないプレッシャーが弱いものへの憂さ晴らしという形で解消しようとするのかもしれません。

ですから、悪気があまりなくても、気づいたら大変ないじめをしていたなんてこともあります。


以上が私がふと当時を振り返って考えていたことです^ ^

多様や個性などを大切にする時代の流れを邁進する船に乗り、クラスメイトの個性や考え方も受け入れられやすい世の中に変わりつつあります。


いじめ問題は永遠の課題ではありますが、深刻になる前に終止符がうたれる時代はそう遠くはないと考えています。

いじめられても、雑草のような根性が育ったことを当時のいじめっ子達に感謝したいですね^ ^


今だけの世界に視野を狭めないで、その先を見据えて視野を広げてみて、笑顔で楽しく暮らしている自分を想像してみてください!

あなたにはあなたなりにこの時代、この世界にうまれた理由がちゃんとありますから。




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