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恩納村の海のこと

2019年12月に恩納村の海を見に行きました。帰ってから読んだ話がとっても面白かったので、書き留めてみます。

恩納村の印象

恩納村のことは、モズク養殖で有名なとこ、漁協が漁場の整備とかオニヒトデの駆除をしたおかげでサンゴ礁の自然が守られてる、くらいのぼんやりした理解しかありませんでした。初めて知り合ったのが漁協の比嘉さんだった、というのも影響受けてるんだろうな。

だから行く前には、持っていた「海産物が豊かな村」というイメージと、なんかちょっと違うなぁ、と感じてました。宿を探したらリゾートホテルがたくさん出てくるし、地図にはゴルフ場がたくさんあるし。よく考えると、合併せずに平成を越えた「村」っていうのは、何かしらチカラを持っているはずで、恩納村のそれは漁業と観光の両方だったということですね。

訪れてみると、景勝地としての万座毛があって、集落には住宅がたくさんだし、僻地にリゾートがあるような場所ではなくて、ちっちゃな範囲に暮らしも観光もギュッと詰まっているイメージでした。公民館の横を通ったら地域の人が集まりをしていたし、泊まった民泊の辺りも荒れてない。
あぁ、ちゃんと暮らしがあるんだなぁ、と分かる、居心地良さそうな場所でした。

復習して気付いたこと

改めて家中さんの論文「地域環境問題における公論形成の場の創出過程」を引っ張り出して読んだのは、沖縄から戻ってからでした。(ホントは読んでから行けば良かったのですが、また行けば良いかなぁ。)

2000年発行なんで、ちょっと前にまとめられたものですが、あ、社会学ってやっぱり面白いな、と思いました。別の社会学者さんが書いたある本を見て「ナンダコリャ」と思ってしまってからは、社会学とはちょっと距離を置いていたのですが、「社会構造を明らかにすること」ってやっぱり大事だし面白いと思います。

自分語として使っていた「社会意識」という語をヒサビサに思いだしたし、論文の中で使われている「公論」という言葉について改めて考えてみました。
過疎地に居ると、好きか嫌いかに関わらず、「地域活性化」とか「地域づくり」とか、そういう言葉と接する機会が多いのですが、なんとなく持っていた違和感が、ちょっとだけスッキリした気がします。ひとつは「村民の通念の中に位置付けること」という言葉。もう一つは「ガバナンスを担うのは行政の役割」という固定観念に囚われないしくみ作りが大事、という、なんとなく思っていたことの実例。この二つに出会えたからです。

恩納村のこと

以下に、ちょっとしたあらすじを書いてみますが、時系列が分かっていた方が分かりやすいと思うので、政府の変化をまとめておきます。

1429年 琉球王国
1872年 日本政府が琉球藩設置
1879年 廃藩置県に伴い沖縄県設置
1946年 アメリカ軍による占領
1952年 琉球政府設置
1972年 日本に復帰

琉球王府が徹底して農業を推奨していたので、もともと沖縄には「漁業」とか「漁村」とかは少なくて、みんなリーフの内側で晩ごはんの魚や貝を捕っていたそうです。(そういえば、石垣島で「おかず拾い」という言葉を聞いたかな。)

だから沖縄では、日本国の漁業権が整えられた時にも、海に面した村人たちの権利を守るための性質よりも、村の外からやってくる「漁業者」の権利を限定しないことが配慮されたそうです。漁業者がいる海の漁業権は漁業者に、いない海は宙ぶらりんのままなんとなく村人のものに、というカンジで、恩納村は漁業者がいなかったから、とりあえず漁業権は宙ぶらりん。

恩納村漁協ができたのは、オキナワが日本に復帰する2年前の1970年、漁業権が恩納村漁協のものになったのは1974年。全国的にもとっても有名なモズク養殖は1973年に始まっていて、10年も経たないうちに養殖事業は軌道に乗っていた。すごい!

ところが、1978年を最初に、赤土が海に流れ込む被害が起き始めてしまいました。あぅ。
沖縄は地質的に、土地を整備すると赤土が流れ出るわけですが、本土復帰以降に農地整備やリゾート開発が進められたために、ひどいことになりました。この被害について、漁協は村に漁業補償を要求した結果、土地改良事業を実施した土地改良区が補償金を支払うことになったわけですが、さらにヤヤコシイコトになります。

モズク、海ブドウ、アーサなどの養殖を漁協が始める前から、村民ならだれでも海藻や貝、タコなどを取っていたのに、漁協に入っている人だけが補償金をもらうのはなんかズルイ、お金をもらうために漁協は文句を言っているんじゃないか、という非難が起こったそうです。端から見れば、被害が出るから補償金を請求するのは当然な権利だし、そもそも非難されるのは赤土流出を起こした事業の方です。漁協にとっては被害に加えて、村の中で不評を買ってしまうという二重苦です。

こんなことになってしまったのは、「漁業権」という考え方自体が村人の中にストンと落とし込まれていなかったからで、漁業をする村民と漁業はしないけど食料としての採取をする村民の両方が存在することになって、海面の管理主体がはっきりしていなかったから。

僕としては、ここが面白いポイントのひとつで、法律を作ってそれに基づく取り組みを実施したからといって、地域に「馴染む」までは、その効果が発揮されないし、馴染み方も色々ある。これは、あるなぁ。

論文には、その後どうやって漁協が公論を作っていったか、や、海面利用を巡るリゾートホテルとの対話で見せた振る舞いなどが書かれています。「恩納村方式」という言葉もあるそうですが、自然再生推進法や生物多様性基本法ができるずっと前から、「もうやってるよー」という状態だったんだなぁ、とワクワクしました。「持続可能性」を実現するのは、ひょっとしたら「品性」のようなものなのかな、というのが気付きの尻尾です。

まとめ

恩納村、行って良かったデス。また行きます。そして家中さんに感謝。

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