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旅の反芻|2005年 九州〜沖縄

12月1日 プロローグ

東南アジアの熱帯雨林をフィールドとする研究者にとって、2005年は特別な年だ。マレーシアで研究している僕の後輩も「すごいですよ!」と興奮ぎみに連絡をくれた。彼が「すごい」と言っているのは一斉開花のことで、今回の一斉開花は、長く研究している人に言わせると「ものすごい規模」なのだそうだ。熱帯の植物には、数年に一度しか花を付けないものが少なくない。その周期は不定期で、数年から10年に及ぶこともある。2005年はこの大一斉開花の年だったのだ。「いつか遊びに行くよ」と言ってはいたのだが、今年がその年かな、と思い、12月の後半に休みを取った。

ところが、直前になって、後輩の渡馬スケジュールと僕のスケジュールが合わないことが分かった。予定通りの日程をマレーシアで過ごすこともできるが、熱帯の原生林にひょっこり行くことは不可能だ。考えた末、今回はマレーシアに行かないことに決めた。予定が変わったのは残念だが、これは仕方の無いこと。「その時ではなかった」という事だろう。

ぽっかりと空いた休日の過ごし方を考えて、沖縄に行くことにした。日数を考えると、昨年計画した「九州一周」もできるのだけど、なんだか遠くに行ってみたくなった。THE BOOMのCDで知り、夏にテレビから流れた森山良子さんの「さとうきび畑」、世界的に(特に日本から離れた国々で)歌われている「島唄」の詞が、気持を大きく動かした。かつて戦地となった場所に自分の足で立ち、そこで暮らす人に触れ、歌の中の空気を吸い、何かを想うことは、ここで平和な日々を送っている自分にとって大切なことのように思えた。

予定の無い休日の過ごし方を考えたとき、隠岐に行く前のことを思いだした。「僕は何のために隠岐に行くのか?」。隠岐に行きたいのなら車でも行ける。自転車で行くのは「隠岐まで自転車で行った」という事実が欲しいのか?そんな事を考えていたようだ。でも、実際に自転車で走っていて、そんなことはどうでも良い事だということが分かった。僕は、自転車に乗って旅をするのが大好きなのだった。いつもの考えすぎの癖だ。
「自転車に乗って沖縄に行き、平和について考える」。旅の骨組みができた。ここが決まればあとは日程を組み上げていくだけだ。冬季の職場に移って3日目の晩、一人の部屋でそんなことを考えた。

12月11日 スロースタート

実家にもどると祖母が怪我をして入院していた。びっくりしたけど、去年も怪我をして同じように入院していたので、本人は割と慣れた様子らしい。それでもやっぱり心配だったので、一日出発を遅らせた。

お昼過ぎにスタートして、小郡に付いた頃に白暮となった。シートのボルトが弛んで外れていたので、ホームセンターで購入した。日が陰ると、一気に寒くなる。持ってきた手袋は薄手だったので、ホームセンターで厚い手袋を買った。ハンモックサイトは、なかなか良い場所が見つかった。「夕食に」と思って弁当を持ってきていたので、暖かい飲み物を買おうと思ってLAWSONに入った。イートインがあったので、そこで食事をする。さすがに持参の弁当を暖めてもらうわけにはいかないが、寒い中で食事をしなくて済んだ。「暖かい」「明るい」というのはこれほど有り難い物、というのが旅に出ると実感できる。19:20にはシュラフの中だった。

走行時間 3:06 32 | 平均時速 16.8km/h | 最高速度 52.5km/h | 走行距離 52.18km | 積算走行距離 52.18km

12月12日 火の国へ

寒い。起きてすぐにそう感じた。しばらくハンモックの中でじっとしたまま、外で舞っている雪を見ていた。いつまでもそうしている訳にもいかないので、8:00に起き出す。ハンモックの場合「起きる=外に出る」なので、起きてからの行動は早い。雪も、芸北のそれとは全く違い、自転車が走れないほどではない。
朝食が取れる店を探しながら走ったが、なかなか無い。コーヒーが飲みたかったのだけど、11:00になりそうだったので、吉野家で妥協した。そのころには雪も止み、気温も上がってきた。

峠を越えて熊本に入ったのは13:00前だった。雪がちらついたが、登りなので体が冷えることは無かった。昨年はこの峠を反対側から登ったので、峠を越えたところに道の駅がある事は知っていた。暖かい食堂で暖かい食事を摂ってホッとする。

郊外では、左手に阿蘇の山並みを見ながら走る。市内に入った頃に、夜の気配が近づいてきた。ハンモックサイトは無さそうなので、ビニールシートを敷いて河川敷に眠ろうと決めた。晩ご飯は「黒亭」という熊本ラーメン屋さん。適当に走っていて、カンジが良さそうなので入った。チャーシュー麺は「コレ!」といった驚きが無かった。熊本ラーメンって、他もこうなのかなぁ・・・。でも、寒い夜に暖かいものを食べるのは、とても幸せなことだと思う。

テレビのニュースで「翌日は大雪」と言っていたので、楽天で探してホテルを予約した。4000円。店を出て、ホテルに向かっている途中で「一泊2,500円」という看板を出している宿があったので「泊まれますか?」と聞くと、「3,000の部屋しかない」という答えだったので止めた。こういうのって、ちょっと後味が悪い。ホテルに着いて「止めて良かった」と思った。翌日はほぼフラットだが、雪を心配しながら眠った。

走行時間 5:55 16 | 平均時速 15.8km/h | 最高速度 53km/h | 走行距離 93.76km | 積算走行距離 145.94km

12月13日 オーバーラン

8:30過ぎに目覚めると、良い天気だった。ホッとする気持とちょっと残念な気持があった。チェックアウトの時にフロントで聞くと、早朝は少し降っていたらしい。
お昼過ぎに八代に着いた。タロウという"高級(と看板に書いてある)中華料理屋"さんで昼食にした。変な名前と思ったら「太楼」だった。安くてボリュームもあるし、唐揚げがおいしい。ビールにしたけど紹興酒にすれば良かったかな、と小さく後悔した。

水俣にたどり着いたところでフェリー会社に電話した。まず、鹿児島 那覇を結ぶA"LINE(マルエーフェリー株式会社)、そして那覇 博多のRKK LINE(琉球海運)。どちらもすんなりと予約が取れたのだけど、それぞれ対応が違っておもしろかった。少しアップダウンはあるものの、割と調子よく進んだと思う。

旅に出る前からずっと気になっていたのが地図の上の「出水」の文字。大学時代、屋久島登山のために青春18切符で旅をしたときにも、出水で一旦降りた覚えがある。その時は、ひなびた駅だと思ったが、今ではラムサール条約の登録湿地にもなっている。翌日のことを考えても、出水まで行っていた方が楽になるように思えた。「出水」の文字とツルの絵が道路標識に見えたのは、真っ暗になってからだった。そこからツルの自生地までは、さらに20km近くある。完全にオーバーディスタンスだ。

雨も降ってきたし、お腹も空いてきた。寂しい気持になりながら「ぶんちゃん」というラーメン屋に入った。お客さんは入ってるけど、郊外だし、あまり期待せずに入ったら、裏切られた。「もやしラーメン(ピリ辛、ねぎ多め)」の定食がすごい。麺はフツーのラーメン屋さんの2倍くらい。もやしといっしょに豚肉の炒めたのが入ってる。スープもうまい。ジョッキが冷凍だったのがアレレだったけど、完全にやられた 。

満たされた気分で走ると、ほどなく渡来地に着いた。未舗装路のすぐそばにハンモックを張ったので、テンションを確保できずに少し濡れた。たくさんの鳥の声を聞きながら眠った。

走行時間 6:52 51 | 平均時速 16.2km/h | 最高速度 60km/h | 走行距離 111.56km | 積算走行距離 257.5km

12月14日 薩摩の長い夜

朝はやっぱり寒い。シュラフを撤収している間にも、ツル(らしき鳥)が3 5羽で編隊を組みながら飛んでいく。小雨が降る中、水田地帯に足を踏み入れて驚いた。どの田んぼもツルだらけ。しかも、かなり近づいても逃げない。しかし、寒くてテンションが上がらず、なんとなくの写真しか撮れなかった。今回は長いレンズは持ってきていないし、ま、こんなものか。カメラがないことで、しっかり感じられた気がする。冬季湛水はおもしろいなぁ。

川内を通過するときに、なんとなくうれしくなる。この町では大学時代の友人が教師をしていて、今回の旅の前にも少し話をした。朝顔みたいな人で、年に数度しか話をしないけれど、なんとなく繋がっている気がしてうれしい。

しばらくは軽いアップダウンを繰り返しながら海岸沿いの道を走った。鹿児島ではおいしいものを食べようとおもっていたけれど、最後の登りを前にすごい空腹を感じ、ラーメンを食べた。お店の人は、鹿児島までは峠ではない、と言っていたけれど、食べて正解だった。自動車の登りとリカンベントの登りは、感覚的にはずいぶん違う。

またもや日が暮れてから鹿児島市境に到着。それからだいぶ走って、九州を西回りにひたすら走ってきた3号線が、東回りの10号線と出会う交差点にたどり着く。ちょっとうれしい気持になって写真を撮っていたら、予約したホテルを見つけた。チェックインのために駐輪場を聞くと、「貴重なモノでしょうから」と言って、Mistralをロビーに置いてくれた。自分の自転車ながら、カッコイイなぁ、なんて思う。

ホテルが提携している別のホテルの温泉に浸かった。風呂場でバイクパンツを見たオジサンに「自転車に乗るのか?」と尋ねられた。聞くと、オジサンの息子はマウンテンバイク乗りらしく、しばしば熊本からバイクで帰ってくるらしい。なぜか風呂場で背中を流してくれた。悪くない。

少し遅くなったが、鹿児島のお酒を飲みに出かける。閉まっている店が多く、しばし彷徨った末、「おでんあります」の看板を出している「尚」というお店に決めた。背中を流してくれたオジサンが「おでんを食べなさい」と言っていたのと、花粉を研究する先輩と同じ名前だったのが決め手。ただ、ご主人は鹿児島の人ではないらしく、おでんも鹿児島風ではなかったらしい。それでもさつま無双、三岳、島美人と飲みながらお腹はふくらんだ。見せに居合わせた「商店会の会長」とやらになぜだかひどく歓迎された。

もう一軒、とても気になっていたお店がある。「はる日」というお店。店の前を通ったときに、なにやら感じるものがあって入らなかった。でも気になる。今度は少し酔って安心したこともあり、思い切って入ってみた。大正解だった。

お店の棚にはずらりと「白金の露」のボトルが並んでいる。全部同じボトル。そして、店の真ん中には八角形のカウンターがあり、女主人のはるひさんが茶を飲みながら座っている。銭湯の番台のようだ。客は一番奥でマンガを読んでいる若者と、その対面に、人生を重ねた風の男性と、これまた物知りそうな女性のお連れさん。僕はその間に腰を下ろす。お湯割りを飲んでいると、女性が話しかけてくれた。上手い、と思った。おかげで、僕はきちんと男性の話の聞き役になることができた。
しばらくして若者が帰り、お二人も出て行って、お客は僕一人に。ニョルさんがblogに書き込んでいた「地元の人の焼酎の飲み方」という話をはるひさんにしてみたら「焼酎にブランドが付いて、高く売られているのにビックリした」と言っていた。鹿児島の人にとって、焼酎は日常であり、安く飲めるから飲むものだという。それから、グラスでたのむのではなく、たいていはボトルでたのむ、ということも、僕の5杯目の湯割りをつくりながら諭してくれた。「ほら、もうボトルの値段と変わらないじゃない」と。そういえば、グラスでは6:4なのに、対面の二人は8:2くらいで飲んでいたなぁ、なんて思った。ドイツのワインハウスに泊まった時のことを思いだした。あの時も、主役は酒じゃなく、おしゃべりだったなぁ、と。そんな僕の前で、はるひさんは「焼酎なんて、どれも原料は芋だしつくりも同じだから、銘柄をあれこれ言う酒じゃないのよ」と言い切って、茶をすすっている。あれこれ選ぶのが面倒だからこの店は「白金の露」だけだそうな。

ホテルに戻って、洗濯機を回し、ベッドに潜ったのは、たぶん4時近くだったと思う。

走行時間 6:17 56 | 平均時速 15.6km/h | 最高速度 55km/h | 走行距離 98.14km | 積算走行距離 355.64km

12月15日 旅路の中の旅立ち

目覚めると11:00に近い時間だった。「ヤバイ!」と思ったけど、ホテルのチェックアウトは11:00だった。やっぱりいいホテルだ。チェックアウトの時に、フロントで栄養ドリンクを渡された。血中のアセトアルデヒドを見透かされているようで恥ずかしかったけど、ちょっとうれしいサービス。

フェリーは夕方なので桜島にもわたれるのだけど、右膝に違和感があったので市内を観光することにした。どこに行こうかと迷った末に鹿児島水族館に決めた。最近の水族館はどこもすばらしいと思う。水族館だけでなく、動物園や植物園も「環境保全」を必ず取り入れている。水族館はそれに加えて「癒し」がテーマになっている。鹿児島水族館の場合は、入館してからエスカレーターに乗ると、大水槽の前に放り出される。照明を落とした広間には音楽が流れ、目の前には大型の魚たちがゆったりと泳いでいる。そこからスタートして、熱帯・近海・淡水など、様々なテーマごとに水槽が並ぶ。イルカのショーは「ショー」ではなく、「イルカの時間」として、生態を学ぶ場として位置づけている。そして最後には「沈黙の海」と題された、空の水槽を展示し、環境への配慮を謳う。これから造られる自然系博物館施設では、環境への配慮は必ず取り入れられるだろう。「沈黙の海」の展示を見ながら、それが単なるお飾りやマンネリにならなければ良いが、と思った。僕の杞憂であることを願いたい。

午前中ははっきり見えていた桜島も、午後になってから雲を冠している。水族館の展望ロビーから見たときには虹がかかるくらいの雨だったのに、夕方にはしっかりと降っている。いよいよフェリーだ。乗船券を買う時になって、これから乗るフェリーが奄美大島・徳之島・沖永良部島・与論島に寄港しながら沖縄に行く事を知った。ニョルさんが書き込んでいた「鹿児島から沖縄までの道のり」とはこのことだったのか、と納得した。

日程的にも余裕はあったし、フェリーの便もあるということが確認できたので、島で一泊することにした。どの島にするか迷った末、自転車で一日かけて回れそうな与論島に寄る事にした。出航の時間までにコンビニに寄り、晩ご飯を買ってからお金をおろした。フェリーは予定通り出航。想像していたよりも古く、食堂は貧弱だったけれど、記念の意味も込め、船内のレストランで食事をした。雑魚寝の二等船室ですぐに眠りについた。

走行時間 1:00 32 | 平均時速 13.2km/h | 最高速度 29.8km/h | 走行距離 13.46km | 積算走行距離 369.1km

12月16日 波に想い、風に眠る

フェリーの中というのは、時間をもてあますようでいてそうでもない。航行時間だけを聞くと長く感じるけれど、意外と退屈しないものだ。かといって、たとえば創作作業が進むわけでもない。海の揺れに痺れているからだろうか。

ぼーっとした頭でシャワーを浴びながら「旅」について考えてみた。日常から離れる事、遠くへ行く事、見た事のない景色を見る事。旅の要素はいろいろとある。ただ、日常生活をしている八幡にも、たくさんの発見がある。八幡の言葉では、余所から来た人の事を「旅人」と呼ぶが、僕は八幡に住んでいても、まだ旅人なのかもしれない。役場の中には旅がない。あったらコワイ。

今までの旅では、「あ、良い景色」とか「スゴイ!」とか「おいしい!」といった心の動きを人に伝えたくて、たくさんの写真を撮ってきた。旅先での心の動きは時間と共に静まっていくので、それらの写真の多くはHDDのプラッターに埋もれていくだけだった。今回、旅に出るにあたり、「旅の空」というblogをはじめたのは、そんな心の動きをリアルタイムで伝えたかったからだ。だけど、blogは別の物をももたらした。

一人で旅をするとき、ケータイの居場所はカバンの底だった。電源は入っていないか、留守電になっていた。そうすることで、日常との関わりが希薄になり、より旅に没頭できると思っていた。それが、一人旅に対する自分なりのマナーだったように思う。旅にblogを携えてみると、いろんな人からコメントをもらった。全く違う時間を過ごしている人から投げられた記事へのコメントを、旅先で見る事で、日常生活を送っている時よりも、それらの人が「居る」ということを意識できた。同じ時間を同じではない場所で過ごしているということを知ることが、自分ではない人が存在するということを確信させる。当たり前だと思いながらもどこかで不安に思っている、そんなことへの証明をしたのがblogでありケータイだった。はじめ、「旅の空」というblogは、旅の間に少しだけ日常に戻るためのツールだと思っていた。投稿を繰り返すうちに、戻る場所があるから旅なんだと知った。戻る場所が無いのは何だろう、と考えたけど、結局答えは見つからなかった。

与論島には予定より1時間遅れで到着した。空は曇っているけど、とにかく海が青い。南の海だ。なんだかあったかいし、植物も青々しているし花を付けているものもある。今回の旅の目的の一つ、サトウキビ畑もあって、「沖縄のサトウキビ畑」と意気込んでいたところに肩すかしを食った気分だった。自転車で走ってても気分がいい。砂利道があったりするのもいい。

フェリー乗り場に置いてあった「ヨロン島ガイドマップ」を見て、与論のビジターセンター「サザンクロスセンター」を目指した。4階建ての塔のようなサザンクロスセンターには、与論の文化や自然、産業に関する展示がしてあった。だいぶ古くなっているものもあったが、十分満足できた。さらに印象を良くしたのが係の方で、こちらの質問にも丁寧に答えて下さり、三線と唄まで披露してくれた。与論の人口は5,720人に対して牛が5,000頭いることや島内に水田はなく、サトウキビが主な作物だということも聞いた。

次に訪ねたのは与論民俗村。個人が自宅の敷地をそのまま展示しているのだが、なかなかコンパクトにまとまっていた。台風に耐えるために部屋を分割し、四角くて小さな茅葺きの部屋をそれぞれの目的に併せて作るというのが興味深かった。ただ、先客があったようで、あまり話を聞けず、残念だった。

夜は「やぐら」という居酒屋さんで有泉を飲んだ。グルクンの唐揚げをたのんだ後に与論の郷土料理が無いか尋ねたら、メニューには無いということだったけど、付き出しの和え物が「ショーシムヌ」という料理だそうで、それをもう一つ頂いた。大根、キュウリといっしょにナマコ、タコ、魚などを酢で和えてある。ラッキョウの葉がアクセントになっておいしかった。

女将さんも忙しそうだったので、昼にサザンクロスセンターで買った「よろん語豆じてん」を開いてみた。パラリパラリと見ると、ずいぶん日本語と違う。後ろで話している地の人達の言葉もやはり全く違う。それでも学校では国語の時間に「日本語」を教えるのだろうなぁ、と想像する。当然のことなのだけど、はたしてそれは良いのかな、と思う。島の言葉は文化だ。文化を残す文部科学省が取り決めたカリキュラムが文化を無くしているという矛盾。地域を越えて通じる言葉を学ぶことの重要性は十分承知している。けれど、あえて「何とかならないものだろうか?」と考えてみる。

なんとなく落ち着かなかったので「海将」というお店に移ってみた。こちらは音楽が大音響で流れていてやっぱり落ち着かないが、刺身は意外においしかった。「みしじ米」という雑炊のような郷土料理を仕上げにして切り上げた。
ハンモックサイトはビーチにしようと決めていた。波の音を聞きながら眠るつもりが、強風に揺られながら眠ることになった。

走行時間 1:00 13 | 平均時速 16.6km/h | | 走行距離 16.72km | 積算走行距離 385.82km

12月17日 その島へ

起きてからもやっぱり風が強かった。少し寒いのでフリースを着て、ハンモックを撤収した。犬の散歩をする人に挨拶してから、ごそごそとカボチャパンを食べた。とりたてておいしいわけではないけど、地元のもの、ということでうれしい。海は翡翠色、砂浜にはサンゴがゴロゴロ転がっている。

船は午後なので、のんびりと島内を走ることができた。観光施設ではよろん焼き窯元と「ユンヌ楽園」を訪れたけど、どちらも「ピピッ」と来るものはなかった。プラプラと歩いたビーチと、そこで見たアサギマダラが印象的だった。無人市には島ラッキョウやパパイヤが並んでいて、八幡の野菜市とはずいぶん趣が違っておもしろい。2個で100円のスターフルーツを買った。昼食は「海岸通り」というカフェ・レストランでニコニコライス(ナシゴレン)とオリオンビール。窓の外には真っ青な海が広がり、BGMはレゲェ。あぁ、夏はもっと気分イイだろうなぁ、と思った。道を挟んだところには与論の役場が建っている。ビーチから1分もかからない距離だ。こんな環境で育った人は、外に出たときに何を感じるんだろう、と余計な事を思う。都市から遠いという点では八幡もおなじだけど、ここはさらに閉ざされている。テレビから情報が入るのと週末を街で過ごすのとは全く違う。悪人が育つ土壌が無い、と感じた。昔の日本もこうだったのだろうか。

フェリーが1時間遅れたので、オリオンを一缶飲んだ。フェリーでは、風が強かったので看板に出ていることができず、ゴロンと寝ていた。気が付いたら湾の中だった。しとしと雨が降っていた。

那覇市街は22:00を過ぎても賑やかだった。予約していた宿、Cam Cam 沖縄(800円/泊)はかなりすごい状態だった。体育会系の大学男子の部活で、10日間以上合宿したときの寝室を想像すれば、かなり近い印象だと思う。ある意味正解だった。その宿で教えてもらった食堂「名護そば」は、スーパーに併設された24時間営業の食堂。スーパーの総菜部の反対側にテーブルと椅子を置いて食堂にした、と言う方が近い。食べたのはトーフチャンプルー定食(700円)。ここで「定食」というのは、基本の「ごはん・汁・おかず」にまぐろの刺身と卵焼きが付いたもの。普通でも500円だからすばらしい。しかもおいしい。食べ物が安い都市(国)は、楽に旅が出来ると思う。

宿に帰って日記を書いている時、隣にいたドイツ人の女性となんとなく話をした。安宿もおもしろい。

走行時間 2:17 28 | 平均時速 12.7km/h | 最高速度 39km/h | 走行距離 29.28km | 積算走行距離 415.1km

12月18日 その日のできごと

6:30頃に目が覚めた。いつもより早いのは雑魚寝の効果だろう。まわりを見るとがらんとしていた。みんな早いんだなぁ。。。

走り始めてから朝食をどう取るか考え、結局昨晩と同じ名護そばさんに決めた。選んだのは「みそ汁(500円)」。沖縄のメニューでみそ汁は、本土のみそ汁とは違う。豚汁の豚をポーク(ランチョンミート)に換えたようなものだ。正解だった。
はじめに向かったのは漫湖。ラムサール条約登録湿地だというのはガイドブックに書いていたが、それ以外の事は全く知らなかった。そして、都市に隣接してマングローブ湿地があるのを見てビックリした。ここはすごい。いい。今回の旅では、マングローブは見られないだろうと思っていたので嬉しかった。

次に旧海軍司令部壕を訪ねた。僕は歴史に疎く、沖縄が唯一の地上戦経験地ということは知っていても、ここに来るまでは、それが実際どういうものか知らなかった。日本本土への米軍侵攻を遅らせるために沖縄が盾になったことや、この壕がその時の作戦本部だったことも、ここに来てはじめて知った。沖縄戦の死者は200,656人。このうち一般の沖縄県民は37,139人で米国軍は12,520人。米国軍が使用した砲弾は2,716,691発で、沖縄県民1人につき472発の砲弾が使用された事になる。ばかげている。これらの数字を見たときの僕の率直な感想はこれだった。大事故や災害がニュースになると、必ず数字が出てくる。そのたびに感じるのは、数字にしてしまうと、惨劇も事象になってしまうということだ。数値に悲しみは無い。そこで人が死んでいるのに、それを死として捉えることが出来なくなるということが気味悪く感じられる。ばかげている、という感想も、数字を見たから出たのだと思う。一人の人の死を前にして、たとえどんな死に方であっても「ばかげている」という感想は持ちえないだろう。

ここで一番印象に残ったのは、一人の兵士が家族に宛てた手紙だった。その手紙には家に残した妻や子への気遣いを書きながら、自分の近況を「平和な正月でした」と記していた。平和。戦争中にこの言葉が使われていたことに引っかかった。それはどんな平和だったのだろう。「平和」という言葉が使われている間は、本当の平和はまだ訪れていないのだろう。日本語から「平和」という言葉が無くなる日が来れば良いと思う。

でも、と言うもう一人の自分もいる。兵士が「平和」という言葉に込めた思いこそが、生の喜びであり、芸術と源を同じくするものだ、と。すべての人に本当の平和、本当の無事が訪れたとき、そこに文学や音楽や絵画は生まれるのだろうか?この矛盾こそが人の証なのか、それとも僕が平和に惚けてるのか。

快晴の下、走りやすい国道を南下していくと、さとうきび畑が開け、おじさん2人とおばさんが作業をしていた。ぷらぷらと旅している者が作業中に話かけるのは失礼なようで躊躇われたが、思い切って声をかけたらおじさんが話をしてくれた。子どもの頃には、学校の帰り道にさとうきびを勝手に食べたりしていたが、今の子どもの歯では無理だろうと言っていた。当時は靴も履いていなかったそうで、素足のままこんな固そうな葉や幹が転がる畑に入るとは、どんなだったのだろうと想像したけど、見当も付かない。さとうきびを食べてみせて、僕にも一本くれた。「あなたには固いだろう」と言っていたが、なんとか食べられた。さとうきびの腋芽は節ごとに左右交互に付いていて、刈った後にはそこから新芽が出て増えること、一年に一度取り入れられ、下部は精糖工場に引き取られて上部は鋤き込んでたい肥にすること、2tあたり約2万円で、糖度が高ければ値段が上がる事などを話してくれた。たくましく見えたおじさんは、実は昭和7年生まれで、見た目よりもずっと年上だった。終戦当時は13才。とてもそのことは聞けなかった。

ひめゆりの塔に行くまでにも、いくつかの「~の塔」という看板を見た。はじめは「ひめゆりの塔への便乗か?」と思ったけどそうではない。それだけたくさんの人が死に、塔が建てられたのだ。

ひめゆりの塔あたりに着いたけど、すぐには「そこ」に行けなくて、ついゆるゆると昼食を取ってしまう。「雪花菜」さんというお店でソーミンチャンプルーとオリオンの生ビール。食べ終わるころ、女主人がかけたCDは島唄だった。歌っているのはMiyaじゃない。「あぁ、この歌は、もう沖縄のスタンダードになったんだなぁ」と感慨にふける。沖縄の人たちは、いったいどんな気持でこの歌を聞くのだろう、と思った。

ひめゆりの塔は、強い陽射しの中にすんなりと建っていた。塔の前には暗い穴がぽっかりと空いている。沖縄戦当時には外科院として使われた壕。ずいぶんと長い時間たたずんでいたと思う。数十人の観光客を連れたバスガイドさんが入れ替わりやってきては当時の説明をし、合掌を促す。よどみない解説と、羊の群れのような観光客を見ていると、恐ろしい気分になった。

博物館に類似する施設を訪れた時、僕の中には常に学芸員としての意識がある。それは、展示の方法や館のつくりといった「受け入れ側」の視点だ。言い方を変えるとひねくれた見方、とも言える。でも、ひめゆりの塔に隣接するひめゆり平和祈念資料館では、そんな冷めた、平静な思考は保つことができなかった。館内では、学徒動員で生き残った人が解説しており、また、別のブースでは生き残った人の証言を次々にビデオで流していた。長く居るつもりは無かったのに、証言映像から目が離せなくなってしまった。涙が溢れて止まらなかった。一言一言の裏にある様々な当時の生活を思い、戦時の異常な教育がもたらしたものをつきつけられ、次から次に涙が溢れてきた。ひめゆりの塔や壕、女学生の像はモニュメントでしかない。悲しみは、心のひだの裏に隠れているものだ。

ところが、ビデオを見ているうちに、涙が止まっていることに気付いた。幾人もの生存者の証言を聞くうちに悲惨な話に「慣れて」きたのかもしれない。異常な状況を日常にしてしまうことができるほど、人は強いものだ。逆に、そうしなければ心が潰されてしまう。ただ、同時に、今の「平和」な生活をありがたく思う強い感覚が拡がったのも事実だ。戦時中に「平和な正月」と手紙に書いた兵士の気持に、少しだけ近づけたのかもしれない。ここ、ひめゆり平和祈念資料館を訪れて、自分の中に平和に対する強い欲求を認められた事は、自分にとって貴重な経験になった。
資料館を出て、ばあちゃんの話を記録していないなぁ、と思った。いろんな話をしていたはずなのに・・・。今度会う時はたくさん話をしよう、と思った。記録する行為が「失われていく」という事実を認めるようで嫌だけど、これはやらなきゃならないと思った。

少し走ったところにある平和祈念公園は、広くてきれいな公園だった。ガクガクと揺さぶられた心が穏やかになっていくのを感じた。自転車に乗って遊ぶ子どもたちを見て、「あぁ、これが平和だなぁ」と思った。本人が「安心」を自覚せず、何かに夢中になれること。楽しい事を思い切りできること。子どもや老人など、弱い人達がニコニコ笑っていられること。それが平和だ。そんな世界が理想だと思う一方で、自分が思っただけでは世界が変わらないとあきらめて、悟った気分になってしまう自分がいる。それでも、広い景色と青空を見ながら、今日は平和について深く考えられた事をとても大切なことだと思った。

ぐるぐる考えて疲れたのか、ハンモックサイトと張り方が良かったのか分からないけど、ぐっすりと眠れた。

走行時間 3:48 37 | 平均時速 13.1km/h | 最高速度 46.5km/h | 走行距離 50.07km | 積算走行距離 465.17km

12月19日 この島の今

知念に来たのは、自転車で走るのにほどよい距離だったこともあるが、琉球王国一の聖地「斎場御獄(せいふぁうたき)」を訪ねるためだ。自転車で旅をするときには、まず「走ることができる距離」を考えて、次に「目的地」を探す。「目的地」というのは、特に有名な場所じゃなくても良いのだが、走った先に何かある方が、ただ漫然と距離を重ねるよりも楽しい。

ここは、かつて様々な儀式が行われた場所で、首里城などとともに世界遺産にも登録されている。駐車場や遺物の案内図はしっっかり作っているけれど、訪れる人は少ないようだ。確かに、首里城の豪華さと比べると地味なのだが、人々の精神的な拠り所が見捨てられているようで寂しかった。

この日のもう一つの目的地、「おきなわワールド」にはお昼頃に着いた。博物館相当施設で、日本で2番目に長い鍾乳洞「玉泉洞」やハブ博物公園、王国歴史博物館などが併設されている。園内には沖縄の暮らしについての展示もあり、定期的にエイサーの公演も行われている。そんな説明を見ていたので、けっこう期待していたのだけど、いわゆる「テーマパーク」だった。つまり、大型バスがたくさんやってきて、おみやげ屋さんが充実しているところ。ハブ博物館も玉泉洞も、素材は良いのだけど、味付けがファミレスのようだった。一通りは楽しめるのだけど、飛び抜けたものが無い。大勢呼ぶのにはこうするしか無いのだろうけど、一人旅には向かないと思う。ニヘデビールは特筆すべきものはないけれど、ゴーヤサンドはおいしかった。

那覇に戻る途中、サトウキビ畑沿いの未舗装農道を見つけてうれしかった。石垣島を思い出して懐かしかった。土埃の立つ道や、バックホーにまとわりつく鷺を見て、あぁ、いいな、と思った。

那覇で取った宿はビルの1フロアを使っていて、別のフロアには別のホテルが入っていた。まるでヨーロッパのようだ。ただ、部屋に通されるとやっぱり日本で、下のフロアに入ってるホテルは中華の雰囲気だった。沖縄っておもしろい。次は那覇に滞在するのもいいな、と思った。

夜は市場に行ってみた。一階で買った食材を二階で料理してくれるそうだが、料金設定は高い。今回は「まぁそんなもんだ」と割り切って食べたけど、次に行く事はないだろうと思った。

お腹イッパイになったあと、泡盛を飲みに当てもなくフラフラと歩いていたら、三線の音が漏れてくる店があった。小さな店で、扉は開いており、中を覗くと仕事帰りのサラリーマン風の人が三腺を弾き、もう一人が歌っていた。普を見ながら三線の練習をしているようだった。常連の人達に見えたのでちょっと迷ったが、思い切って入ってみた。三線を弾いていたのは内地から沖縄に来ている支社長さんで、歌っていたのは地元の花やさんだった。いい。ずいぶんと飲んだあとに花屋さんにカラオケに誘われたけれど、部屋にもどった。思い返すとだいぶ飲んでいた。

走行時間 2:07 47 | 平均時速 14.2km/h | 最高速度 48km/h | 走行距離 30.49km | 積算走行距離 495.66km

12月20日 ウチナー歩き

実質的に、沖縄で過ごす最後の日。宿で教えてもらった「安い食堂」に行ってみた。軟骨入りのソバを食べた後、自転車でフラフラしていたら、青果市場を見つけた。昨日の肉・魚の市場と違い、いかにも地元の人だけが利用しているようで、見ていておもしろかった。

この日、最初の目的は首里城。那覇から少し自転車で街中道を走るが、天気も良く、首里城日和だ。都会の中に赤煉瓦の屋根を見つけたりしてうれしい。でも、首里城は自転車に優しくなく、ちょっと寂しかった。駐車場はたくさんあるのに、自転車置き場はかなり離れていた。

10年ぶりの首里城はきれいに修復されていて、以前に訪れた時の印象とはずいぶんちがっていた。小倉城の中で映像装置を駆使した展示を見たときの感覚とよく似ている。それでも、周到に用意された案内はさすがだし、玉座の周りに代表される手の込んだ装飾はすばらしかった。写真を撮りながら歩いていると、中国旅行の帰りにトランジットの時間を利用して来ているという台湾の2人連れに話しかけられて、成り行きから一緒に見て回った。琉球王朝が影響を受けた「オリジナル」の国の人達と一緒に首里城を歩くのは不思議で楽しい時間だった。一人旅はこんなところがいいと思う。

首里城の近くにある紅型のお店は、二階と三階の工房を公開している。工房といっても、見せ方が上手い。いい空間になっていた。気に入ったTシャツがあったのだけど、サイズが無くて残念だった。ハンドメイドは出会いだ。

那覇に向かう途中に「市場」という字を見つけたので路地に入ってみた。自転車で走るのがはしたないほどの細い路地が入り組む中で、魚屋さんがやっている食堂を見つけた。定食はどれも500円。やっぱり安い。海鮮丼、というのもメニューにあったけど、沖縄の料理を食べたかったので「ナーベラ味噌炒め」にした。メインの味噌炒めの他に、魚屋さんらしくおいしい天ぷらがついている。隣で食べている人に話しかけられたので、「ナーベラっていうのはどんな魚ですか?」と聞いたら笑われた。その人がウチナーグチに翻訳すると、店の人みんなが笑った。聞けば、ナーベラというのは魚ではなく、ヘチマのことだという。いかにも旅人らしい間違いで、恥ずかしいより先に笑ってしまった。

午後からはやむちん通りを歩いた。壺屋焼物博物館は、小さいながらもきれいなつくりだった。沖縄の赤瓦の拭き方とシーサーについての展示が興味深かった。ただ、焼き物の歴史にも戦争の陰が射していた。今の沖縄では、全ての物事が戦争と結びつく。

壺屋は、窯元はたくさんあるけれど雑器が主体の玉石混淆といった印象だった。特に、他所から来た若い人の窯が目立った。その中で、気になったものを1点と壺屋「らしい」ものを1点求めた。壺屋らしい方は、お店では「焼きに失敗した」としていたものだが、自分としては気に入ったもので、安く手に入ってよかった。

少し買い物をしてから宿に戻り、帰る準備をするとすっかり夜になってしまった。店を決められないままプラプラしていて「かびら」という居酒屋さんを見つけた。「きっと石垣島出身の人が川平湾にちなんでつけた店名だろう」と思って入ると、店主が「かわひらさん」だった。後から聞くと、同じように思って入る人が多いらしい。料理も酒も満足いく内容だったのでこれはこれでうれしい勘違いだった。居合わせたお客さんも店主も僕も、すっかり出来上がってしまい、ふらふらと宿に戻って眠ったのは夜半過ぎだった。

走行時間 1:05 42 | 平均時速 10.4km/h | 最高速度 43km/h | 走行距離 11.39km | 積算走行距離 507.05km

12月21日 嵐の海へ

朝から大粒の冷たい雨が降っていた。朝食をどうしようかと迷ったけれど、最初の晩に食べた名護そばのお店でクーブイリチャーを食べた。前の2回がおいしかったのだけど、3度目は塩辛かった。作る人や日によって、味にぶれがあるようだ。去る前にそれが分かったのがおもしろかった。

ザァザァと降る中を港まで走り、乗船の手続きをしてからコンビニで食料を買った。船の中に売店や食堂があると読んで少ししか買わなかった。読みは外れたのだが、結果的にはこれが良いことになった。

13:00頃に出航した。2等船室(雑魚寝)を予約していたのだけど、500円の追加で2等洋室(2段ベッドの8人部屋)が利用できるということなので、そちらに移った。

その後、しばらくは揺れに身を任せたまままどろみ、夕食の時間に食堂に行ってみたが、ひどい揺れのため、わずかの距離を歩く間に船酔いになり、とても食べられる状態ではなかった。ただ、何か体に入れておいた方が良いと思ったので、寂しい気分になりながら、アクエリアスのペットボトルと自動販売機の炒飯を買った。ただ、ベッドに戻ってもすぐにそれらを食べることはできず、再びまどろみと睡眠の隙間に入っていった。

夜が更けると時化はさらにひどくなり、船底で荷物が動く音が響いた。大きなフェリーだったにも関わらず、高いところから落とされるような、波を乗り越えていく様子が体に伝わった。部屋の中ではみんなの荷物が右から左へと動いているのだが、だれもそれには構わなかった。とにかく起き上がることができないほどの揺れだったのだ。

朝方になって「12時・・・」というアナウンスが流れた時には「予定通り着くのか」と思ったが、実際には「12時間遅れで到着する予定」とのアナウンスだったらしい。昨晩買った炒飯を、やっと食べて、再び横になった。

昼になると若干ではあるが、波の勢いが弱まった。それでも、柱に掴まりながらでないと歩くことは難しい。昼食には、船からのサービスで、カレーが供されたが、これもトレーを支えながら食べた。横にならないと酔うという状況は変わらず、食べたらすぐにベッドに戻った。

何度か眠り、何度目かに目覚めると、波が穏やかになっていて、フェリーが博多湾に入ったことが分かった。23:00をまわっていた。それにしても長い船旅だった。到着が半日遅れたこともビックリだが、あの波の中をよく出港し、たどり着いたと思った。博多港で下船して、さらにビックリしたのは、待合室に沖縄へ向かう乗客数名が待っていたことだ。半日も待った上に、あの海へ出て行くのかと思うと、同情せずにいられない。年末の最終便ということもあるのだろう。

一緒に下船した人の中には「もう二度とフェリーは使わない」と不満を吐き出している人もいたが、個人的には思い出の船旅になった。時間の拘束が無いので、フェリーに乗っていることそのものを楽しんだ。船酔いには参ったけど、たどり着くと分かっているので問題は無い。夜が遅くなり、自転車で峠を越えるのが難しそうだったので、自転車を置き去りにして列車で帰ったことが残念だったくらいだ。冒険や達成など、完全な旅を求めているわけではないから、それもまた一つの形として認めようと思った。

駅まで妹に迎えに来てもらい、家で少しだけビールを啜った。オリオンとは違う味に、帰ってきた実感が沸いた。

走行時間 0:16 56 | 平均時速 13.1km/h | 最高速度 23.5km/h | 走行距離 3.75km | 積算走行距離 510.8km

12月26日 エピローグ

沖縄から帰って、佐賀から長崎へと小さな旅をしてみた。車で走ると、田園地帯の田川から福岡の都市高速へ、唐津の海岸街へと景色はめまぐるしく変化する。雨や汗で服が汚れることもなく、サッパリした顔をして呼子のイカを食べたり唐津焼を見たりできる。昨日までの自分と同一人物だというのが不思議な気がする。

長崎へ向かったのは、平和公園へ行ってみようと思ったからだ。単純な発想かもしれないけれど、疲れるほどに平和について考えた旅の余韻が残る間に「その場所」を訪れておこうと思った。

長崎に着いたのは夜で、クリスマスを前に街が華やぐときにも、平和の像は変わらずにどっしりと座っていた。小学校の修学旅行で訪れた時には、ただただ旅行が楽しいばかりで、今回は夜なので資料を見ることができない。ナガサキの記憶は小学校の平和教育の時に教わったものだけだ。像の前に立ち止まり、何へともなくしばらく祈った。

翌日はぺんぎん水族館に寄ってから雲仙へと向かった。雲仙では環境省が管理するビジターセンターに寄ったあと、季節外れの湿原をゆっくり見て、温泉に浸かった。博物館巡りになってしまうのは仕方がない。湿原も温泉も良かった。余所の湿原や博物館を見ると、八幡湿原や高原の自然館の輪郭がはっきりしてくるのがおもしろい。

田川にもう一泊した翌日、広島に戻った。普段は夜に移動することが多いのだが、この日は昼間に移動して、この旅の最後の目的地、平和記念公園を目指して広島市内に向かった。連日の大寒波とは無縁のように広島市内は穏やかで、雪の気配も無かった。台風でたくさんの木が倒れた平和大通りには見慣れないモニュメントが作られていて、すこしだけ違って見えたけれど、公園内の景色は変わっていなかった。長い道の先に見える平和の火とその先の原爆ドーム、慰霊に訪れる人達を眺めながら、2週間の旅を反芻した。長いとか短いとかそういうことは分からないけれど、自分なりの「平和」への思いをしっかりと固めることができた2週間だったと思う。世界が平和であってほしい。照れも気負いもなく、今なら言うことができる。


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