支援しないことが支援になる

 11月25日、山梨県笛吹市で講演会を開催した。タイトルは「生きづらさの声でつむぐ ラジオとくるま」。事前に「生きづらさ」をテーマにメッセージを募集。講演会はNHKの栗原アナウンサーとともに、メッセージを紹介しながら、感じたことを話していくというもの。
 メッセージは、細かく指定せず、「生きづらさ」というテーマだけで募集しました。取り上げるメッセージも順番は決めず、ランダムに。メッセージを受け、話す内容も決めず、その場で感じたことを話す形にしました。講演会でありがちな事前の決め事は一切取り除いた結果、どんな話になるのか、やっている人も分からない、曖昧で、隙だらけのものになりました。
 やってみると、これを話すと決めていないため、フワフワした感じが残り、進行していても話したという実感は湧きませんでした。でも、不思議だったのは、講演会終了後のアンケート。この種の講演会であれば、良かった、悪かったと簡潔に書かれたものが多いですが、書かれたアンケートを見ると、文字がびっしり。「メッセージを紹介されて、自分の話が聞いてもらえたと感じた」、「話を聞いているだけだけど、癒された」との内容が書かれていました。アンケート以外には、休み明けにメール、電話、そして手紙で感想を伝える人たちが出てきて、反響に驚きました。
 何もしていないのに、何かしたことになっている。この不思議がどこから来るのか?私は余白のような気がしました。
 相談の仕事をしていると、悩んでいる人は答えがほしいのだと私たちは思ってしまいます。答えを伝えることが支援である、そんな思いが私たちの中で強くなってしまいます。でも、それは私たちが答えを知っており、答え以外の話を私たちは聞かないとのメッセージを相手に与えてしまっている。私たちは話を聞いているようで、自分たちが聞き入れる内容を意識的、無意識的に選別してしまっているように思いました。
 今回の講演会で私たちは答えを示しませんでした。示さないというよりも示せない。私たちは分からないという立場に自分たちの身を置きました。結果として、私たちは聞くことしかできなくなった。聞いていく中で、答えを出すことに執着していたところに隙間が生まれ、気持ちが楽になったのかもしれないと思いました。
 支援を前提にすると、足し算の発想になります。あれも、これも、それも。どんどん増えていった結果、何をしたら良いのか分からず、身動きが取れなくなります。でも、もしかしたら、支援は引き算。あれもいらない、これもいらないとやっていき、最後に残ったことをやることで、人は動けるようになるのかもしれない。そう思いました。

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