_君の名は_

今更…だけど… 『君の名は。』から、こころ模様を学ぶ 第一回


note マガジン『娯』 シリーズ「君の名は。」

胸キュンとは?


第一回 胸キュンを探る!


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  本コンテンツは、ネタバレの内容を含みます。未鑑賞の方の閲覧はご遠慮下さい。


  今更ながら、映画『君の名は。』の評論をしていきたいと思います。映画はあまり見に行かないので、滅多に映画の評論はしないのですが、この『君の名は。』は、空前の大ヒットになっていたこともあり、言いたいことが沢山あるので、ノートに残しておきたいと思います。

 note マガジン『娯』の今回のテーマは、『胸キュン』です。胸キュンとはなにか?というテーマで、『君の名は。』に出てくるストーリーをベースに、胸キュンを感じる場面を思い浮かべ、なぜそう感じるのか、そして、そもそも胸キュンとはどのような感情から表出するのか。そのメカニズムを解明したいと思います。

 この映画は、キュンキュンしっぱなしなので、言いたいことが沢山あり過ぎて、何から言っていいかわかりませんが、とにかく、はじめてみたいと思います。

Ⅰ.胸キュンを探る!

キュンの正体は、
様々なギャップにある!

ⅰ)時間的なギャップ

 まずは、時間のギャップがある。過去と未来におかれた瀧と三葉。3年という時間のズレがあった。それがあったために、三葉が瀧に東京へ会いに行ったときに、瀧が三葉を知らないという事態になる。三葉は「当然会えば必ず分かる」と思っていたのに、瀧が自分を知らなかったという内情の切なさは、偶然出会えた嬉しさから一転、奈落に突き落とされたような衝撃と失意のどん底に陥ったことだろう。切ないとは「刹那」の意味もあり、一瞬の儚(はかな)い心情を表現する。出会えた嬉しさが一瞬であればあるほど、この情景は見る物の切なさを一層深く感じさせるエピソードである。画像2

そして、このエピソードを、瀧が思いだす設定も胸キュンだ。三葉の体を使って自転車で、必死に山を登り御神体へ向かうその時に、三葉の心になって実感する。三年前どんな気持ちで自分に会いに来たのか…。今の彼には痛いほど分かる。画像3

このとき既に三葉の過去を見ており、すでに掛け替えのない存在になっていると感じている三葉の体を駆って三葉の魂に会いに行くのだから。

ⅱ)場所的なギャップ

 また、飛騨と東京という設定も、場所的な距離感(ギャップ)がある。そして場所のみではなく、都会と田舎というコントラストも同時に両者のキャラクターを引き立たせている。環境の違いをストーリー展開の中でコメディタッチで描いている。そして、いずれにもいえることだが、田舎の風景も都会の風景も繊細なタッチで描いていることだ。監督も言っているが、涙を流した後など人の心が浄化されると、景色が美しく透き通って見えることがある、そうであるならば、美しいものを見れば、人の心は浄化されるのではないかと考えた、のだそうだ。この逆転の発想には感心した。
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 確かに、涙を流した後などは、光のコントラストや輪郭が際立ったり透き通って美しく輝いたりすることがある。三葉役の上白石さんも、「今回の『君の名は。』もそうですが、監督作品を見た後は、町の情景が綺麗に見える」といったコメントをしているのも、これに関係しているのかもしれない。
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また、三葉が瀧に会いに行くという設定で、女子高生がちょっと冒険で行ける、遠すぎず近すぎない距離感を見立てている。この辺が現実感を出している演出なのだろう。映画でもそうだが、小説でも東京にはあっという間に着いてしまったと書いてあるが…。

ⅲ)男女の入れ替わり・内面のギャップ

 監督は、今回、男女の入れ替わりについて、古典の『とりかえばや物語』などを参考にしたと言っていた。このような男女が入れ替わる物語は、日本には古くからあるのだが、外国にはこのような文化はなく、日本独特なのだと、今回あらためて感じた。そう言えば、日本では、歌舞伎がある。これは全て男性が女性役もこなす。そして宝塚は全て女性である。このような文化はやはり外国にはあまり見られない。
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 男女の入れ替わりにより、普段の『性』の感覚から、ジェンダー、そしてセクシュアリティまで全てが影響する。このギャップがかなり激しい変化をもたらすのは予測できるが、今回の映画では、この辺の[からだ]の問題については、胸を触る程度のソフトタッチの内容に留め映倫に触れない範囲の仕上がりにしてある。ことさらに、この辺りだけを強調してしまいそうな作風にも仕立てられるが、監督自身は[からだ]の違いを描くのが目的ではなかったと言っている。ストーリーの中で、二人の気持ちが交錯し、想いの中で男女の恋心をより深く描くのが目的だった。画像8

 年頃の男女が入れ替わるとなると、相当なギャップを感じて当然であることは想像に難くない。特に少年が男性性に目覚め女性を意識し、少女が女性性に目覚め男性を意識する多感な時期であるが故に、性の描写のみならず、お互いの自意識を繊細かつ大胆にストーリーに織り交ぜることが可能であった。小説では、はじめのシーンで瀧が三葉になって目覚めるときに、まず、声の変調と息の細さに気付く。そして胸の物理的な重さを感じ取ったという表現など非常に繊細な描写でしたためられている。画像9

 胸を揉むのも、監督的には当たり前の行為として認識しており、男女がもし入れ替わったら「いや…(男だったら)ふつう揉みませんか?」とあっけらかんと答えている。実際そう思う。

ⅳ)奥寺先輩とのデート・立場のギャップ

 ここにも年代のギャップや、立場のギャップをモチーフにした胸キュンがある。特に三葉が設定したデートに瀧が赴くことを知った三葉が、「いいなぁ~今頃二人は一緒か…」といって涙を流すとき、自分では涙していることがよくわからず、自然と涙がこぼれる描写は、切ない感情が迫る場面であろう。画像10

 この場面は、単なる憧れというより、自分も瀧として先輩とデートしたり話たりしているうちに、セクシュアリティ(女性の男性性)で恋してしまった先輩と、直接会っていないけれど身体は知っている、身近で遠い存在の瀧(三葉が好感を持ち始めている存在)が、デートするという複雑な心境を表現している。そして、彼の本心も知らない中で、自分がデートのセッティングをしてしまったことへの遣る瀬無さ、そして結局、先輩に私は敵わない、先輩ほど美人でもないし、大人としての魅力もない私に、彼の想いがどう動くかわからない…と自分への不安や憐憫が入り混じる心情が組み合わされている。

ⅴ)時間を超えて…再会の喜び・生と死のギャップ

 ファンタジーでしかあり得ないことだが、三葉が彗星災害の犠牲者となったことを知り、愕然とする瀧に、一縷の望みを持たせたのが、御神体の口噛み酒であった。お婆ちゃんのムスビの話しから、これを飲んで、過去へタイムスリップすることを咄嗟に思いつく。記憶を頼りに御神体に行ったことを思い出し、三葉の半分を飲み込む。タイムスリップがおきて三葉の過去を垣間見た瀧は、彼女の心情を更によく知ることになる。そして、流星の片割れが落ちてくる瞬間まで三葉と意識を共にした。画像11

 次の瞬間に三葉の体に瀧の魂が入り、目が覚める。目覚めた瞬間、小説では三葉だと「確信した」と書かれている。三葉が生きていることを全身で喜ぶ瀧。この場面は、恋する三葉に無上の愛しさを感じた瞬間だった。まるで三葉を日頃から見守る守護霊や精霊や天使までもが一緒に喜んでいるような、本当に体があってよかった!と心からの祝福と感謝の気持ちが伝わってくる場面である。画像12

 ここでは、やはり、体を大切にすることへのエピソードなどがちりばめられているのではないだろうか。最近の若い人たち、これはいつになっても変わらないことかもしれないが、もっと自分を大切にしなさい、と人から言われてもその意味が、あるいはその意図するところが、今一つ分からずにいる若者は多いと思う。私もかつて、中学の担任から「もっと自分を大切にしなさい」と言われたことがあるが、そのころの自分に投げかけられたこの言葉は、虚しく空を諳(そら)んじて、心にまったく届かなかった。

 この映画を見た若者が、自分の体を大切にする気持ちや、将来への希望を持って生きられるように願いたい。

ⅵ)御神体で再会…時空のギャップ

 瀧の三葉は、糸守の住民を守るために、同級生のテッシーとサヤちんと画策する。三葉のことは絶対に守りたいし、同級生も死なせるわけにはいかない。いろいろ手を尽くすが、町長にも相手にされず、手詰まりと思われた時、入れ替わっているはずの三葉が御神体の場所にいることを予感する。「はっ…そこに…いるのか…?」そして、御神体へ向けひたすらに走っていく。三葉が三年前に自分に会いに来たというエピソードとともに、彼女への想いは募る。画像13

 やっと御神体のカルデラ山頂についた瀧の三葉と、そこにいるはずの三葉の瀧は、お互いに見えない。時間に差があるからだ。しかし、カタワレ時になると、お互いの姿が見えてくる。時空を超えて出会う二人。そしてこのとき二人は再会ではなく、実は初対面であった。初めて瀧の姿を見る三葉。
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「瀧君がいる…」「大変だったよ、おまえ、すげー遠くにいるから」という瀧のセリフが、この時の心情をよく表している。

ⅶ)記憶の薄れ…遠い過去からのギャップ

 再会もつかの間、カタワレ時が終わる。と同時に、不意に三葉がいなくなる。そして、記憶が薄れる。これも象徴的なギャップだろう。人間の持つ記憶…大切で失いたくないものを忘れてしまうこと。薄れゆく記憶に、必死に抗(あらが)う瀧と三葉の姿は、作為的なストーリーではあるけれども、時間を急激に捻じらせた結果として、その記憶を消さなければならない、そのような自然の宿命があるように感じられ、まさに時間に逆らう代わりに、大切な記憶を抹消しなければならないという掟を突き付けられたのだ。
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 これは、大きな自然の宿命や秩序には従わざるをえない私たちの虚無感や無力感のようなものがジワリと沁みこむエピソードである。究極的には人間はみんな死ぬ。その掟には逆らえない。しかし、何とかして大切な人に生きていてもらいたいと願う切ない気持ちが、人間には必ずある。このような心情を汲み入れ記憶という触媒を使って、私たちが棲む時間内存在の大いなる掟を描いたのだ。画像16

 最終的に、名前だけでなく、そこに来た理由も忘れてしまう。そしてずっと誰かを何かを探している想いを持ち続ける。それは私たちがまさに、この世に生まれ来るときに、全てを忘れて来る姿と似ている。一体何をしにきたのかを思い出そうとしてる姿と重なるのだ。人間は宿命的に自らのルーツや役割を知りたいといつも願っている。それが摂理であるが故に、この問いかけは私たちの心を揺さぶる。最後に二人が出会えることで、希望を持って生きることの価値や生きる意味を演出するエピソードとなっている。


Ⅱ   災害のレクイエム

 私は個人的に、このテーマが一番大きく映画の質を変えていると感じる。このテーマがあるために、今までの一般的なアニメ映画とは一線を隔しているといえる。日本人への鎮魂歌として、復興中の日本が抱える問題を描いているということだ。私自身もまだ、震災の傷が癒えてはいないなかったということを今回の映画鑑賞から改めて認識した。東日本大震災から8年。今だに約2万人の方々が被災され、仮設住宅で暮らしているという事実。このような問題提起をするために、監督自身、今回のストーリー展開を考えていた。

 監督は、閉塞した震災後の日本に、未来への希望や勇気や意欲を持てるような映画に仕立てたかったことをインタビューでも話している。それを聞いたとき、本当に監督への感謝の気持ちで一杯になった。糸守町は、今の福島、あるいはもう少し広範囲であるかもしれない現在も人知れず放置されている町の姿だ。映画の中で、糸守町は隕石災害により消失したが、このように目に見える形で、被害をもたらした痕跡を残せばまだ分かりやすい。

 しかし、今回の福島や東北地方の災害の本質は、甚大なる放射能汚染であり、その痕跡は目に見えるような形ではなく、そのほとんどが忘れ去られようとしている。しかも、あろうことか故意にそれを矮小化して無かったことのように私たちの記憶から消し去ろうとしている。

 糸守の町の文化、そこに伝わる伝統、町の息吹を、映画では組紐のエピソードや巫女の舞など、美しい描写と共に日本の原風景も同時に描きだした。それは、福島やその周辺にあった美しい風景と重なり、私は、あの原発事故を起こすことがもし分かっていたら、原発を日本に誘致しようとした時に戻すことができたなら…歴史は塗り替えられ、この美しい風景は、今もまだ豊かな大地と豊饒の実りを私たちに齎していただろうと考えずにはいられなかった。
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 クレーターの出来た糸守町は、現在の日本人の心の傷跡である。問題はそれが、地震や津波の天災ではなく、原発災害という人災があったがために、今だに約2万人の方々が避難生活を余儀なくされていること、そして、おそらく、もう二度と故郷には帰れないという事実が横たわっていることを、あのクレーターという形が、私たち日本人そして被災された方々の悲痛なる叫びとして描かれているのではないだろうか。

 これは私たち日本人への鎮魂歌(レクイエムエピソード)なのである。


Ⅲ   少年、少女であること

 この少年、少女という時期は、胸キュンの時期に重なる。個人差はあると思うが、この時期つまり、14歳~21歳くらいまでの子供大人の時期に胸キュンは最高潮に達する。もちろん、昔は13歳で元服の時代もあり、過去においては大人の仲間入りをしていた時期もあったが、現代社会では精神発達段階や文化的諸事情を考えるとこの時期がド真ん中という印象である。

 これも監督自身が言っていた事だが、中高時代の多感な青春時代に、自分が見たらきっと楽しい思い出となるような映画作りを心掛けたという。青春時代、監督自身は恋愛に全く奥手であったが、同級生の恋愛事情を見ながら察知した感覚を映画の中で醸し出している。やはり、胸キュンには若者の溢れる活力が漲るバックグランドが必要不可欠である。

 当たり前のことだが、ここで三葉が中年オヤジと入れ替わっても、まったくイケないわけで、三葉自身も言っているように、少しイケ面の少年でなければ、当然、町を救うミッションにも興味がなくなっていたかもしれない。そしてそれは、瀧の方にも言えることで、もし中年のおばさんと入れ替わったらどうだったろうか。

 果たして、飛騨にまで出向いただろうか。この辺りは想像の域を出ないのだが、やはり、現実問題は別として、ファンタジーの世界では年を取らず、はつらつとしている若い男女が、物語に輝きを持たせ、胸キュン度合いや萌え燃え度が昂まり、惹かれあう力が何かを生み出してくれるという期待を、私たちに抱かせてくれるのだろう。

 ここで、中年のオジサンとおばさんに朗報だが、ファンタジーの世界や、あの世の世界では、自分の好みの年齢と容姿で過ごすことができるといわれているため、あまり落ち込む必要はない?ことを申し上げておく。

 

 こうした胸キュンの御膳立てには、やはり仕組みがある。次回は、あまり興醒めにならない程度に解説し、理論的なことも含めて探っていくことにする。


第二回へ つづく・・・

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