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食の安全性 第七話 食育、体育、徳育、知育、美育(才育)


 本日は、食の安全性シリーズの最後の締めくくりとして、「食育」を中心に育(はぐく)むことについて最近の思いを述べさせていただきましょう。

 はじめに、ここでは私見を述べさせていただく関係上、それにまつわる様々なご意見があると思います。ご意見のある場合は最後に投稿システムがございます。そちらでお受けしております。忌憚ないご意見をお聞かせ頂ければ幸いです。

1)育むものとは何か?

 人生において、育むものを考えるに当たり、 「育」と名の付く語句を掲げてみました。その中に当然「食育」は含まれているのですが、その他、体育、徳育、知育、美育(才育)などが挙げられます。このような育み育てることは基本的には教育について語ることになると思います。

2)教育という言葉の意味

 そもそも教育という言葉は、藤原敬子「我が国における「教育」という語に関しての一考察」(『哲学』73(1981) pp.205-226 【Z9-205】)に記されているのですが、実際に我が国の国語として「教育」という語が使われるようになるのは江戸時代以後と思われるとされ、幕府の公文書では1670年「林春斎の編集書籍進呈件」に、公文書以外では常盤潭北(ときわ たんぽく)「民家童蒙解」(1735年)に使用が見られるとあります。

 さらに「教育」(日本大百科全書(ニッポニカ), ジャパンナレッジプラス (当館契約の情報データベース  参照2011年12月5日))によりますと、「日本でも、「教育」ということばは、外来語として上代以来『孟子』の出典箇所とともに知識人の間で知られていた(あるいは、使われていた)と思われるが、日本人が書いたもののなかに登場するのは、江戸時代になってからである。」(執筆者:宮寺晃夫)とあります。

 そして、西洋的な教育の原点には、Educationという言葉が教育と訳されており、NAVERのまとめから次のような解説が記載されていました。以下引用します。

引用開始~~~~

 "educationの語源には,ラテン語educereとeducareというふたつの動詞をあてはめることができるようである。educereのほうは、手許のLewisのElementary Latin Dictionaryによると "to lead forth, draw out, bring off, take away"というような意味がもとになっていて,"Of Children,to bring up, rear"という語義も見える。

 educareのほうは、同じく、"to bring up, rear, train, educate"というような意味が見える。このことからみると、もともと教育の意味にあるとされた「子どもに内在する可能性を引き出す」というような内容は、そのまま見当たらないのである。

 educereの意味も、「連れ出す」「導き出す」というような意味"(出典:educationの語義をめぐって - 学校教育を考える)とされる。

 一般的に"educationとは、ラテン語の「引き出す」に由来するコトバであり、人間の可能性を外からの働きかけによって引き出すことを意味とされている。…しかし、イヴァン・イリイチによると、これは誤りであり、「教育学上の言い伝え」に過ぎないとしている。

 イリイチによると、子孫の教育(educatio prolis)とは、ラテン語の文法で女性主語を要求する語であり…食物を与え育てるという母親の仕事を意味(イリイチ[1982:104])するとされている。

~~~引用終了

 一般的に「生徒一人一人の中に潜んでいる才能を外に引き出す」という意味が導かれた理由は、educate の e を「外へ」を意味する前置詞 ex とし、「導く」を意味する動詞 duco(ドゥーコー) が合成されてできたラテン語に由来するとされたからだと思われます。字句どおり訳せば「外へ導く、引き出す」という意味になます。

 では、古今東西の現状から、私たちが最終的に育むべきものは何かを考えて参りましょう。

3)食育が基本

 東洋の教育思想は、印象的にことのほか固いイメージがするもので、孟子や孔子など儒教にまつわる思想が色濃く反映されているようです。そして西洋の教育については、言葉の説明からも分かるように、諸説あるとは思いますが、≪食物を与え育てる≫ つまり食育が大切なこととして考えられています。

 自然の一部である私たちの体やそこから沸き出ずる感情や精神、そして美意識や徳目に関する良識、さらに知識や教養などを含む意識の問題は、同じく自然から派生した食材に直結していることは言うまでもないことでしょう。まず現代の食生活の諸事情を考慮すると食育について考えていかざるを得ません。

 生命、身体の基本となる食事。食事の前の「いただきます」、食後の「ごちそうさま」などの言葉に食育の意味が含まれているのだと思います。

 そして現代教育は特に知育に偏る印象があります。本当は心身ともに情操を深めるための手段としてこの五つの教育のバランスが必要であろうと考えます。特に知育は中心にあるべきものではなく、中心はやはり徳育ではなかろうか、と考えています。

4)「五育」の考察

 五育(ごいく)は、明治時代の躾や幼児教育のことで、石塚左玄は著書において「体育・智育・才育は即ち食育なり」と述べています。彼は五育を以下のように定義しました。

徳育 - 道徳教育
食育 - 食事教育
体育 - 運動教育
知育 - 知識教育
才育 - 才能教育

 私は、五行の検証をしている立場から以下のように准(なぞら)えて、 「五育」に考察を加えてみました。

 「五育」を木、火、土、金、水、という五行になぞらえると、食育、体育、徳育、知育、美育(才育)ということになると考えられます。五行をみれば分かるように、どれが一番大切ということではなく、そこにはお互いに関連し補い合いバランスを執りながら協調する関係性があるだけです。

 「食育」は、まず命を育む最たるものとして理解できます。これは、木、火、土、金、水、の五行の中でその役割として命を与えられているのは「木」のみであることからも「食育」が「木」に当てはまることがご理解いただけると思います。そしてそれは、やはり教育の根本の部分に関与していると考えます。
 
 そして「体育」は、行動の最たるものとして、また、理(ことわり)の基本、弁別の振る舞いとして「火」に置かれます。身体を動かし行動することで「もう無理~」と自らの手の届かないところを認識することで私たちは自らの理(ことわり)を知るのです。それが本質的な「理性」を育む基本となるのです。
 
 そして「徳育」は、徳目として中心にある「礼」を重んじることと重なります。感謝の念が全ての中心にあります。 「土」は私たちに大地として安定感や安心感を与えてくれる感情の土台とも言えるものです。

 その信頼の中に感謝の気持ちや歴史や伝統を重んじる感覚、さらに理性と知性の力を借り感性から「悟性」へと昇華させる力を与えられるのです。すなわち知識や教科ではなく『共感』を、そして虚(うつ)ろな無関心や虚無感ではなく『共鳴』のように、互いを尊重しながら競い合うような競合の精神やフェアーな精神の土台を培う場なのです。

 そして「知育」は、過去の記憶と関係するものです。それは個人の記憶だけでなく、私たちが受け継いできた先達の智慧とも関係します。先ほども現代教育はとかく知育偏重と申しましたが、知識が悪いと言うわけでは決してありません。物事を比較検討したり評価するのは知識がなければ叶わないことがあります。

 ただ知能ではなく知性として知育の方向性を保つべきと言えるでしょう。知性は即ち善き智慧の源であり、そして同時に過去の伝統や慣習に習いそれをさらに向上させる力が必要となります。雑駁な知識が知性として土から紡ぎ出されたとき「金」としての価値がそこにあるのです。それにはやはり、先ほどのフェアーな精神の土台が必要不可欠となります。

 そして最後に「美育」(才育)で、これはあまり聞きなれない言葉ですが、創造の根源になる精神の要であると考えています。人間が目的とする「真、善、美の追求」の中でも美的感覚すなわち才能とは自らの進む方向性や志向性であり、常に夢や希望を希求する原動力として働くものです。その原動力は主に信頼や信仰心など信じる力であり、冒険や恐怖を乗り越えるときに必要な力となるのです。

 「水」は様々な形を持っています。結晶としての雪や個体としての氷、水としての液体や水蒸気、さらに気化した湿気などおよそ私たちが過ごす環境の中で形を変え柔軟に変化する物質の特性でもあります。その本質を捉え基本的性質を心の拠り所にすることで確固たる信頼が大志へと変化(へんげ)し理想を現実とすることができるのです。その為には、この「美育」(才育)が大切な原動力となるのです。

 私たちは、命ある物を戴き、命を紡いでいます。これは厳然たる事実です。そして、今、ここでお話ししたように、食を戴き、それを消化吸収し骨肉に変化させ気血を巡らす。そのはじめの糸口に食の存在があるのです。

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次回、最終話『味覚と食』についてお話いたします。



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