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『愛の美学』 Season2 エピソード 2 「愛の領域」(3431文字)

愛の領域


今回「SEASON2 エピソード2」で語る「愛の領域」とは、単純に愛の守備範囲について「こころの立体モデル」に示すこころみだ。

1)二元的な愛の関係


まず、二元的な「愛」について見ていくことにしよう。二元論というのは、ものごとを二つに分けて考えていくことだ。例えば、善と悪、精神と物体など、背反する二つの原理や基本的要素を二つに分ける概念のことである。

現代社会では二元的な考え方が主流だ。関係性にしても論理にしても、その方が考えやすいうえ白黒はっきりしたほうが、人生迷いが少なくてすむ。そして合理的にも考えられる。

だが、実際はグレーもある。善悪の関係は特に、相手がいれば、圧倒的に相手が悪く、自分は悪くないと考えることが多い。

つまり、単純な話だが、見方によって判断の基準も論理の構成も全てが変わってしまう。

文化や社会情勢によっても変わってくる。昨日まで良かったことが、今日から悪になる、そんなことも過去の歴史にはあったに違いない。

ここでの二元的とは、以前も「エピソード1」で触れたが西洋的「愛」と東洋的「愛」のその二つをクローズアップする。

全ては見立て、ということを知ると、本来の二元的な考え方を理路整然と語るには、どんな御膳立てが必要なのか、それを検証したほうがよさそうだ。

2)愛の原理と大元


これは、あくまでも個人的な見解だが、そもそも一般的な「愛」という概念が、なぜか西洋的なキリスト教の教義的イメージに囚われてしまうことが多い。

それは、奉仕の精神や善意、勤労や貢献など積極的な社会へのかかわりを示す印象が強い。これ自体はまったく否定する事柄ではないし、むしろ推奨されるべき態度だ。

だが、日本の「愛」という形を率直に表現すれば、エピソード1でも触れたように、消極的な愛と積極的な愛の二面性がある。

わが国では、「愛」を「かなし」という語になぞらえる。この中心的な意味をなすのは、求めるものの不在によって感じる、 満たされぬ淋しさや空しさである。求める対象の不在をしめやかに嘆く消極性に対して、 むしろこれを激しく志向する積極性を示すのが、愛情を意味する「かなし」であった。

このようにむしろ、哀愁や悲哀の「哀」が「愛」と合いまみえ、日本的なひびきになる。

茶道、華道におけるわびさびも、世俗を離れ自我を滅却 ※1し無心に自然と一体になるこころみである。だがしかし、世俗への憧れもときにはある。そのような時に、華道では自然を居住空間に取り込み、茶道は俗世空間から離れ一服を味わった。

※1 自我の滅却 利己的な自我を抑圧するのではなく、その自我を観察しながら、自然と一体になる、基の自分に戻る「己」の調整を意味している。
(令和4年1月29日追記)

このように、東洋的なこころの情景は、自然との融合という観点が根底にあり、そこから自分自身を見据え心境をととのえる極めて消極的な態度として現れてくる。

「施す」といわず「貪らない」、「やさしくする」といわず「憤らない」、「賢い」といわず「愚かでない」、「勤勉」といわず「怠けない」、「治療する」といわず「傷つけない」、一見消極的な態度であるが、これが私たち日本人の「愛」の領域にはある。

3)愛の源泉はいずこに


再び西洋の「愛」の概念に戻るが、キリスト教を愛の宗教としてイメージ付けたのは、パウロの功績が大きい。パウロが布教のために選んだスローガンが「愛」だった。

新約聖書「コリント書 第十三章 <至上の愛(Supremacy of Love)>」には次のようにある。

このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。しかし、その内、最も大いなるものは愛である。

コリント書 第十三章「至上の愛(Supremacy of Love)」

このフレーズは愛の賛歌として有名で、キリスト教を愛の宗教として印象付けた。しかし、実際のセンテンスは「ナグ・ハマディ文書」の中に収められた「フィリポによる福音書」に記されている。

このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。しかし、その内、最も大いなるものは愛である。

だが、信仰と希望と愛より大いなるものは知識である。はむしろ知識の結果なのである。

コリント書では、後半部分が抜け落ちている。これは「失われた福音」にも記されているが、パウロ派グノーシス派対立関係にあったことも関連しているのだろう。

イエスは「愛」とは、知識の結果だと唱えていたのだった。パウロが目論んでいたのは、協会による民衆の先導であった。結果的にそうなってしまったのだが、結局は民衆に賢さを求めることを望んではいなかったのだろう。グノーシス派 ※2との対立も、そういった意味ではうなずける。近代の信仰に、希望の源泉として智慧を欠いた抜け殻の「愛」が残存しているのはこの影響が大きい。

※2 グノーシス主義とは、1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけてっ地中海世界で勢力を持った宗教・思想である。グノーシスは、古代ギリシア語で「認識・知識」を意味し、自己の本質と真のについての認識に到達することを求める思想である。物質と霊の二元論に特徴がある。

つまり、本来の「愛」の視点を元に戻す必要があるのだ。

4)欲求と関連する愛の源泉


「愛」は、その働きが単なる感情の表現として理解されることが多い。しかし、本来、イエスの教えは、「愛」とは「知識」や「智慧」の結果であると告げられていた。

したがって

1)原理的に「愛」には、大元に知識や智慧が必要なこと。

2)東洋の原点である、「かなし」も「愛」の領域を為す。

実は、この二つは最も重要な欲求と絡んでくる。

それは、「自己重要感」というニーズだ。マズローの欲求段階説を立体に見立てたモデル ※3でも、③所属の欲求から、③’愛の欲求の「場」にマッピングされる。

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※3 詳細は「エピソード7『愛の欲求』」、「男女関係ジェンダー第四話」を参照。

東洋医学的には、五行は「肺」を示し、五常では「智」であり、仏教の六波羅蜜も「智慧」の「場」、そして日本的「悲哀」の感情や共感性が生じる「場」でもある。

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このような「場(領域)」に「愛」の根源があることが、西洋東洋問わず理解できたことが今回の大きな収穫であろう。

5)愛の一般的二元論
「光」と「影」


これを初めに掲げてもよかったが、一般的な「愛」の二元論は、「愛」と「憎しみ」などと言われる。

しかし、これは本来の「愛」の形ではない。たった今説明したように、愛の源泉は「智慧」にあった。「愛」は単なる感情のカタチではない。ましてや「愛」を感情のみに還元することはできない。「愛」の意味を見失う原因は、そのような感情的な思考から噴出する力そのものだと「愛」を捉えようとするからなのだろう。

そして、そもそも「愛」の見立ては、二元的ではない。しいていえば「多元的」と言えるだろう。この多元的という言葉も、様々な学問領域で語り継がれてきた。

多元的についても各論を詳細に語れる者だけが、総論を語ることができる代表例であろう。つまり、具体的にそのコンテンツを指し示す必要があるのだ。今回このマガジンの最終的な取り組みとして、この部分を詳細に指し示すことを意図している。

その一つとして、「愛」の領域は、感情や欲求、価値の源泉となる『感の面(赤い面)』より、むしろ知的な能力に関与する『知の面(緑の面)』に広がる印象がある。

この印象は極めて大切だろう。これらを踏まえると、「愛」は、「知の面」に広がる「能力」とも言える。また、霊の世界に「愛」はとても相性がいいのはそのためだろう。もともと「知の面」は、霊長としての「能力」の世界であるからだ。スピリチュアルな領域に「愛」の語りは心地よく響く。

しかし、このコンファタブルゾーンに安住している限り、能動的な「愛」の活動は見えてこないだろう。ましてや、その場に留まることで、より能動的に自らが「光」となって生きるために、どれほど人生の価値を見出すことができるのか。

だから、単に「光」を受ける存在ではなく、「光」を与える存在になること。それが結果的に「愛」を与える存在となる、このような「愛の証」について「愛の美学」の中核である「性知学」で語っていきたい。

だから、まだまだ「愛」の奥行は深いのである。

次回は、そのような愛の奥行にちなむ「愛の側面」についてお話していこう。






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