『愛の美学』 Season3 エピソード 9-① 「愛の真理」(5922文字)
結局のところ、「愛」とは、何か。
All you need is LOVE(愛こそはすべて)ビートルズの有名なナンバー。本当に「愛」こそが全てなのだろう。「愛の美学」の終盤でそんなことを想う。
「愛」ってなんだ?
そう聞かれたら、答えは恐らく十人十色である。そんな問いに答えられる素養を身につけたかどうか。
思索を続けてきた現段階で自分なりの「愛」について、今回から「まとめ」に入りたいと思う。
一方、「真理」とは、このマガジン内の語彙表現を使えば以外と簡単に説明できる。それは、「理の面」を真向から覗くこと。
つまり「愛の真理」とは、「愛」を「理の面」を通して見るということだ。さて、そうすると、何が見えてくるのか。
まず、愛の原点をおさらいしていこう。
「愛」とは
エピソード1「愛の弓矢」で、『愛』とは、
として、『愛』の性質に触れた。
中今とは、神道の思想で、過去と未来を内包して、永遠に続く中心点をとらえること。また、あらゆる宇宙とは、一人ひとりの宇宙のこと。自らの中心とは、「こころの立体モデル©」の中心のことである。それらを射抜く矢が『愛』である。
射抜く矢の先に、『愛』の『的』がある。それが『愛』の目的。
その目的を見つけ、そこを射抜く心情は、『愛』の基本姿勢だ。
その姿勢とは、
この感情であった。
この言葉は、心情を表現する、より主観的な感情だ。そしてより客観的には、その視点であり、視座であり、視線であるといえる。
この姿勢を、『愛』の象形から窺い知ることができた。
白川静、『常用字解』による解説だ。
そして、エピソード6「愛の心象」1)愛の戯れでは、「愛」の役割について触れた。
この開眼する力を養うために、今までの語りがあったはずだ。
そして、「愛する」とは「スキ」な感情「嗜好」とは異なるとして、
この「愛のステージ」についても検証した。これについては、後半で再びおさらいしよう。その前に、「愛」を含む、その他の欲求全体の構造をおさらいしていく。
マズローの欲求段階
確かに、「愛」は、心の動きをともなうものだ。そして、ひとつの欲求でもある。エピソード8「愛の欲求」の中で、「マズローの欲求5段階説」について触れた。(自己超越も含めると6段階)
「愛」という名詞は、その結果のさまざまなカタチを表わす。また「愛」は情動をともなう。情動は一つの欲求である。そのルーツを訪ねるため、「マズローの欲求段階説」を利用した。
実のところ「マズローの説」は、日本ではそこそこ受け容れられてはいるが、諸外国ではめっぽう評価が低い。信憑性がないとされている。その理由をブログ「マズロー批判」から抜粋した。
とある。ごもっとも。私自身も同感である。
では、なぜここでマズローを引用したのか。
理由は、単に日本で有名だからではなく、この説を少し改変すると、欲求の段階としてではなく、私たちがもつ欲求の基本構造を説明できるからである。
少しずつおさらいしていこう。ご存知のように、マズローの欲求段階は一般的に下図のようにヒエラルキーとして認識される。
このヒエラルキーの欲求段階を、いったん「こころの立体モデル©」の『理の面』(基本四象限)へマッピングしてみる。「理の面」とは、私たちの社会環境を四つの象限に分けた基本象限であり、モノコトの結果を表わしている。(内面の個々人が「精神」、内面の集団が「心理」、外面の個々人が「身体」、外面の集団が「社会」になっている)
すると、図のように、「理の面」(基本四象限)に「マズローの欲求4段階」までを簡単に配置することができる。
このようにまとめると、「マズロー批判」の欲求を「ヒエラルキー」や「段階」として掲げるのではなく、単に並列する欲求の項目として眺め直すことができる。
また、興味深いことに、この欲求段階は、身体から精神まで、四象限に沿った回転関係にあることも分かる。
そして、この回転は段階を示すのではなく、自然な発達の流れや秩序、基本四象限それぞれの間のつながりを示唆している。
たとえば、内面的な「精神」や「心理」の発達には一定の時間が必要であるし、現実問題として安全の確保は生きる基盤として必要になる。
私たちには居住する空間が必要であるように、集団の外面である「社会」へのアプローチは、安全感という「場」が必要になってくる。できれば安全で安心できる環境が望ましい。
その環境の中で「心理」が育くまれ、個々の精神へと展開していく。これは、マズローのいう欲求のヒエラルキーというより、発達に則した秩序や順序であり、その一つひとつは欲求の項目同士がつながり合う基本構造として理解できる。
さらにこの基本四象限の「社会」には、住居などの構造物に限らず、インフラ整備状態、交通や通信手段などのシステム自体が変化すれば、集団の心理も自然に変化するということを示している。
たとえば、夜にお腹が空いたとしよう。50年前はコンビニストアは無かった。でも今は冷蔵庫に何もなければ、コンビニまで何かを買いに行く、という発想が生まれる。さらに古代であれば、「明日、狩りに行くか・・・」と考え、コミュニティの大人たちが、狩りの準備をする。
これが社会システムの変化による集団の「心理」への影響だ。その「心理」は即、「精神」も変容させることになる。
そして、その「精神」は「身体」の行動の基盤となる。
これは、常に循環する回転であり、ヒエラルキーではない。欲求とは、対象となる「モノ」や「コト」によって、あるいは事象の発生場所が、回転の内部、外部であっても、必ず基本四象限の相互関連により事態が進行する。
つまり、どのような集団に属しているのか、国から始まり、市町村、そして家族までが関連してくる。基本四象限は、とてもよくできた仕組みである。
しかし、ここで、違和感を感じる方は、センスがいい。
逆に、批判的になってほしい。実はこの平面的な解釈で納得しては困るし、これでは、マズローの自己実現までは説明できない。ましてや自己超越も。
この基本構造では説明がつかないことが、まだまだある。その違和感の理由は、この後明らかになるだろう。
少し話を進めることにする。
さらなる高み?自己実現
マズローの欲求、最後の自己実現は、これら欲求のすべてを満たす、「自己」を確立していく前提でヒエラルキー構造の頂点に位置していた。
これを敢えてマッピングしたのが下の図であった。
すべての欲求は自己実現のためにある。
考えれば当然だ。「自己」は、必ず身体を持ち社会と関り、みんな家族の一員で心理的に所属し、意志や精神を持っている。
ただ、マズローは、その質的なものを問いたかったのだろう。だから、ヒエラルキー構造にこだわった。強いて言えば、この基本四象限の存在意義それぞれの価値が高いことを求めていたのだろう。
しかし、ここでは、単に「理の面」に配置しただけであり、本来、その意識の高みに関与する段階は、また別のライン として検証しなければならなかったのである。(これについては、次回以降「愛の段階」に関する部分で説明する)
そして、さらに、これらの平面的な理解から、立体的に構造を改変することで、より深く欲求の構造を把握することができる。それで、先程の違和感がいくらか軽減されるはずだ。
さらに話を進めよう。
さらなる欲求の把握、立体的に改変
平面的な見え方を立体的に把握すると、マズローの欲求モデルの意図したことが見えてくる。
「こころの立体モデル©」に組み入れてみると、下の図のように見える。
上図は『理の面』にマッピングし、生理、安全、所属愛、承認などのキーワードが立体モデル上に示している。
そして、これら欲求は本来、赤の『感の面』に関与するものであるため 、欲求を『感の面』に組み直すと下のようになる。
『感の面』の四象限は、感情や欲求のエネルギーを示し、手前の象限から活力、気力、知力、体力となっていた。
マズローの②安全欲求と③の一部「所属の欲求」がひとつの「活力の象限」に入り、内的な心を示す「愛の欲求」は③’として内面に配される。④「承認欲求」は認知に関する「知力」に配した。
ここから、五つの欲求とも解釈できる。
この立体モデルで「自己」はどこにあるのだろうか。それは節の最後に示すが、ここでは、「愛」としばしば混同される「性愛」、つまり性欲の正体を示しておこう。
性欲と自己実現の正体
では単純に性欲を「生理的欲求」の一つとして考えてみよう。
平面的な解釈では
このように、身体的な欲求となる。つまり、ヒエラルキー構造ではなく、生理的な欲求の一部とみなせば、他の三つの欲求があってもなくても関係はない(だから、性欲については、段階的関与が希薄になる)。
そして、日本語はうまくできていて、身体は「身」という字と「体」という字の二つで熟語になっている。女性が男性に対し、
「体が目的だったのね」
というときは、単に「性」の対象にされたと感じ、自身の社会性や人間性もまったく無視され体だけの関係と思う。
男性が「身勝手」に「性的欲求」を満たす行為は、それも一つの「自己実現」かもしれない。これはまさに「中心」の「自己」が関与している。
先ほども説明したように「自己実現」の領域は中心だった。
この自己実現は、一般的に考えて矛盾しているように感じる。では、マズローが言っていた「自己実現」とは一体なんだろうか。
立体モデルにこの「身」と「体」を投影してみると、「自己実現」の本当の意味が理解できる。
『基本四象限』の四つの語彙は、八つに分けてマッピングすることができた。
互いに『理の面』を境に「公人性」と「私人性」に分かれていた。ここは、非常に大切なポイントだ。
そして、「身」の後ろには「理」が隠れて見えなくなっていた。
まさに「身勝手」というのは、中心に「身」があるのだが、その中心の「奥」の見えないところに「理」がある。この見えない「理」に深い意義があった。
「理」とは、公に根差し、それは規律心であり、私たちの生命を支える内部の高貴な振る舞いに近い。細胞でいえば、「核」であり、あらゆるものの中枢であり、律動している全ての基本的な挙動を見つめる目でもある。
マズローが終盤に称えていた、自己超越という段階(項目)は、この「理」を目指した「自己」の存在を訴えていたのだろう。まさに「内なる神」を目指していたと思われる。
これを目指すには、エピソード3「愛の源泉」4)陰性感情からの転換でも述べたが、心境的には「受」の段階を経ることが必要であった。
これについては、次回まとめることにする。
導入として、ここでは「受」と「理」の関係性を概観しておこう。
感情の構造で「受」は「理」と同じ位置になっており、この受容の働きに「愛」は極めて深く関与している。
陰性感情の原初は「イヤ!」であった。
この「嫌」①から番号順に「悩」⑥までの陰性感情を巡り、最終的にその悩みを受け入れる段階から、次に下図の陽性感情の段階が訪れる。
この全ての段階に「愛」は関与し、その気付きを促してくれる。