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『愛の美学』 Season2 エピソード 8 「愛の方向」(6859文字)

「愛の方向」は、二つの視点から見ていく。それは、理性と感情だ。

これら二つの対比を通し、日常感じる些細なことから「愛」に関するエッセンスを拾い上げることができる。これらを最終的に統合させる力が、どのように成されるかを見ていくことで、はじめて「フィロスの方向」を見出せるだろう。それでは、早速はじめよう。



1)理性と感情の対比


「愛」自体は、理性でもなく、感情でもないことを最初に確認しておこう。「愛」とは、理性と感情を通して見えてくる一つの概念である。

私たちが、普段生活していく中で感じる「愛」とは大まかに次ような感情が多い。

例えば、価値観が共有できると、好感とともに「愛」していると感じる。また、承認によって欲求が満たされると、「愛」されていると感じる。価値に対する共感と承認である。

これは「愛」の一側面に過ぎない。そして、本来の「愛」の認識からすれば、これは仮初かりそめであり、半ば受動的な反応と捉えることができる。ここから一歩進んで、さらに深みを増すために「愛とはなにか」を学ぶ必要がある。

「愛」は、一方で理性的な面を通して見えてくる。理性は、受け取られた五感情報をどのように処理するか、それは単なる受動的な反応ではなく、能動的な所作を生み出す力となる。

カマドにくべる燃料を想像してもらうといいだろう。よく燃える素材は反応的に燃え上がる。このような感情の嗜好的、快感的な一面を「アクセル」とすれば、理性は「ブレーキ」として働く。つまり、くべられた素材がどのように反応するかを冷静に観察する客観的視点を持つことといえる。

このような「アクセル」と「ブレーキ」の所作をる視点に本来の「愛」がある。

一般的に五感を閉じれば、反応的な感情も閉じていく。また、ある種の集中が、これらの感情を抑制的に働かせることがある。それは交通ルールの「一旦停止」と似ている。そのときの感情に左右されることもあるが、ルールに集中することで一旦立ち止まり抑制させる。

また、少し趣が異なるが、神智学や人智学的な精神科学では、これをキリスト制動と表現したりする。

理性は、このように「制動」という表現に近い。これらの表現は、半ば受動的ではあるが能動的に抑制をかける所作として現れてくる。

このような感情と、その感情を制する理性との間に、本来の「愛」の作用点がある。それが、感情と理性のあいだにある「ソフィア」である。

2)愛のムチ


「愛のムチ」という表現がある。

本来の「愛のムチ」はムチを与える側と与えられる側のどちらもが「ソフィア」により統合されている前提で成り立つ。

単に自分にとっての良し悪し、快・不快のみに翻弄されれば、「ブレーキ」のない乗り物のように、自我が肥大化し自己愛的な様相を助長する。

相手からのネガティブな感情をネガティブなままに受け取り、反応的に処理すれば、まずネガティブ感情のループから抜け出すことはできない。

つまり、ステップとして、このネガティブ感情に対する自己認識が「愛」を見出すエッセンスとなる。

半ば独白的な説だが、こうした感情に対するには、ある程度「己」の作用に頼らざるを得ない。また、「悪」を感じる「感じ方」にも、更なる自己検証による深い理解が必要になる。

「愛のムチ」の痛みが分かるのは、双方の「己」の作用と「悪」の見立てによる。単に感情的に振るわれる「ムチ」は、結果的に「己」と「悪」を知らない「愛の無知」による悲劇にしかならない。

3)「忌」と「悪」の見立て


私たちには、家族が亡くなると「忌引きびき」や「忌中いちゅう」として、死をみ、敬い謹む時間ときをもつ習慣がある。

さらに、「忌み避け」「忌み嫌う」などけがれを避ける意味から、「忌まわしい(縁起が悪い、いやな感じがする)」などの表現に発展した。

一方、「悪心おしん」という言葉がある。これは本来、自分自身の気分が悪くなることを示す語彙である。人のせいで気分を悪くすることではなく、自らの感じ方や考え方に嫌悪する場合を示す。

そのような「悪」を本来漢字では「惡」と書き、一般的な「悪」と区別する。

現代社会では、「悪」というとき、自分を蚊帳かやの外に置き、外部からの干渉や攻撃をあげつらい、相手が悪いと考える。

しかし、本来の「悪」は、「惡」。つまり「自分自身が惡い」身持ちの悪さ、その心情が由来となっている。

この二つの文字、「忌」と「惡」は、「こころ」の上に「おのれ」と「」を置く。

心の全体を見渡す「己」は、糸巻の巻き取る形。ここから「紀」は、「おさめる」の意味となった。一方、「忌」は、心を巻き取る、心の周囲を見回しながら確認する、そのような印象をもつ。「己」自体に、回転し巻き取る働きがあるのだ。

一方「悪」の「亞」という形は、中国古代の王や貴族を埋葬した地下の墓室の平面を表しているという。正方形の墓室の四隅をくり取るのは、隅に悪霊が潜んでいるとされていたからだ。その部分を「忌み嫌い」くり取ったのである。

ここで「悪の定義」をまとめておこう。

自分本来の心情に対する「あく」
「惡」

自分以外の対象としての「あく」
「悪」

「悪の根本原理」Ⅱ.悪の定義より

「忌」と「惡」を知ることは、自らを重んじ、「己」の作用がこれらの心情を想起させる働きをしている。

「嫉妬」を例に言えば、自責の念や内省に近い「嫉」であり、自らの所作を「嫌惡」する見立てだ。

一方、「妬」は一般に相手が「悪い」とする感情を表している。

つまり、自らを自浄するには、それを見る目が必要になる。モノのメンテナンスをする時と同様に、己がその役割を担う。

板前が仕事上がりに、まな板と包丁をメンテナンスするように、包丁の刃や、まな板の状態を確認する。商売道具を大切にするのと全く同じだ。

自分の「心」を商売道具と感じることはあまりないだろう。「生身の」というくらいで、「心」をモノにたとえるのは違和感がある。だが、人が動くと書いて『働く』。この動きを保つこと自体、身体のメンテナンスを必要とするのだ。

いずれにせよ、自分自身の「心」と「身」を分けることで、感情の働きをある程度客観的に見ることが出来るだろう。

4)陰性感情と陽性感情


感情については、過去記事、エピソード6「愛の心象」エピソード7「愛の境界」に詳細を述べたので、詳しくはそちらをご覧頂くとよい。

私たちが感じる陰性感情として、下に挙げるような情動がある。もう一度、「こころの立体モデル©」で把握しておこう。

ネガティブ感情

そして、陽性感情は下図に示す通りだ。

ポジティブ感情

ここで、大切なのは、最終的に中心を担う受容の段階に至ることだ。これが「感情」や「理性」を通して見えてくる「愛」の立体的な見立てになる。

ここで、感情の変遷について、おさらいをしておこう。

① 陰性感情の変遷

感情は驚きから始まる。その原初の反応は、①「イヤ!」である。そして外的な事象、あるいは他者関係から、②恐怖や、③怒りの感情が湧き、さらに高次のネガティブ感情、④悲しみ、⑤嫉妬が生じる。最終的に、それらすべてを基にした、⑥悩みがもたらされる。勿論、この感情の旅は一直線に進むわけではない。繰り返しループのように同じ所を巡ることがある。むしろその方が多いだろう。陽性感情も同様である。

② 陽性感情の変遷

陽性感情は、これらの陰性感情を処理するような印象がある。陰性感情より陽性感情の方が、高次の意識を必要とする。したがって陰性感情から陽性感情に至るには、ある程度「理性」の力が必要になってくる。まず、表面的 ※1に陰性感情の名残なごりを、①肯定的に捉えることで、極めて表面的な、②共感的理解や、③喜びが出現する。

※1 この表面的段階とは、あくまでも肯定的に自らの心情を扱う努力をしている段階で、より深い心情理解からの情動ではない。

さらに深い気づきからの感情をまとう段階から、④惻隠そくいんの心によって、本当の意味で相手の傍らに寄り添う気持ちに到達し、⑤辞譲じじょうの心も育つ。この段階に至ってはじめて、⑥ゆるしの境地におもむくことができる。

③ 陽性陰性両感情の関係

これら、陽性感情と陰性感情は、表裏の関係になっている。

たとえば、「こころの立体モデル」から分かるように、嫉妬は喜びに変わる。ほとんどの人はこの変化に違和感を覚える。その理由として、喜びが生じる仕組みプロセスを見ると理解できる。一般的に喜びの感情は、相手より自分が優れていることを喜んだりすることが多い。褒められたり、承認されたりすることも同様だ。嫉妬は、その逆で、相手の業績やステイタス、地位など、他人の優れているところをねたむ心情だ。男女関係でも仕組みは全く同じである。

勢い「好き」同士でても、それは単なる感情的な「スキ」であり、このような情動は本来の喜びではない。

ポジティブ感情本来の「喜び」は「悦び」の意味合いが強い。極端にいえば、自らえつに入るという感覚に近い。東洋医学では、「喜びすぎると心をしょうす」といわれるが、これは他人ひとと比較する「喜び」が原因で発病することであり、本来、自らのよろこびを享受していれば体の調子は良くなるものだ。

「立体モデル」が示す、この「喜び」は、その裏にある深い心情の、④惻隠の心が醸成じょうせいし、⑤辞譲の心の芽生えにより最終的な、⑥ゆるしに至る。

この嫉妬が、最も理解しがたい境地だろう。

だが愛のキューピッドは、嫉妬と嫌悪の感情を抱かせる鉛の矢も持っている。感情的な愛と嫉妬は、裏腹の関係にあることを知らなければならない。

相手の心境を理解しつつ、自らの心情も理解する。これが現実的には、⑥赦しの境地を生む。

④ 「愛」の段階的成長

そして、「愛」の最終的な居場所は、「居心地のよい場所」として、「愛」が羽ばたける場である「⑦受容」を生む。「愛」とは、このような精神が概念化された言葉だ。

「愛」は、感情の段階的な成長と共に「醸成」されていく。

驚き、①「イヤ!」からはじまり、②恐怖、③怒り、④悲しみ、⑤嫉妬、⑥悩みに至る。そこから、陽性感情に向けた心境変化が開けば、まずは表面的な①肯定的な捉え方による②共感や③喜びから、より深い心情の④惻隠、⑤辞譲の心をって最終的な⑥赦しに到り、⑦受容する。

昆虫が、幼虫から蛹になり成虫になるがごとく、これが一連の、心情のメタモルフォーゼである。

これらの感情で、ことのほか心情が駆り立てられるのは、陰性感情の方だ。先ずこれら陰性感情を乗り越える知恵を、私たちは持つべきなのだろう。

①嫌悪を乗り越え
②恐怖を乗り越え
③怒りを乗り越え
④悲哀を乗り越え
⑤嫉妬を乗り越え
⑥悩みを乗り越え

⑦肯定的に捉え
⑧共感が芽生え
⑨喜びを享受し
⑩辞譲を意識し
⑪惻隠を体得し
⑫免赦を見定め
最終的に受容する

では、ここで乗り越えるために、東洋の智慧を借りよう。

お釈迦さまが、省察瞑想をされたとき、一体どのような心持ちであったか、今となっては、それを知るよしもないが、おそらく「身」を以って知ることが、真実への道であり答えであるとお感じになっていたに違いない。

それは、結果的に苦難と迷いの道にある者を救う「智慧」となり、その入り口は皆と同じ、お釈迦さまご自身がもつ苦難と迷いでもあった。つまり、陰性感情である「悩み」がメタモルフォーゼの転換点になるのだ。

5)八正道の智慧

この転換点をブレイクスルーするための智慧が「八正道」である。それぞれの要素が「愛の方向」を示している。

前回、「愛の段階」において、意識の発達段階を示した。伝統的な叡智の解釈から、現代の心理学に至るまで、人間の精神と意識の発達には、相応のプロセスがあることを明らかにした。

智慧の解説の前に、このプロセスの発達段階にはそれぞれ異なるラインがある。前回、ラインについてはあまり詳しく説明していないので、ここで説明しておこう。

① ラインと八正道

ラインとは、認知、倫理、感情、間ー人格的・人間関係(インターパーソナル)、欲求、自己同一性(アイデンティティ)、美意識、性―心理的・男女関係(サイコ・セクシャル)、スピリチュアル、価値、運動発達などで、これらにはそれぞれに発達段階があり、認知や理解の水準がある。つまり、ラインとは、ひとまず、認知的発達概念の総称と言える。

「こころの立体モデル©」にこれらのラインをマッピングすると下図のようになる。

オーバーラップする部分を見据えながら、単純化したのが次の図だ。

これらのラインは、八正道に含まれる認知的な概念のつながりを示している。

② 愛は八つの方向を持つ

おそらくこの精神の発達段階に先見的な境地が生じると、最終地点はまた延長されていく可能性がある。スピリチュアルな表現をすれば、スーパーマインドやオーヴァーマインドのような開かれたこころになるだろう。

では、いったいそのような心境に至るまで、私たちはどう進めばよいのか。効率性や採算性を度外視して、やみくもに進めていくことはあまり賢明とはいえない。

そこで、先達の智慧をお借りする形で、後半は仏教的側面から「愛の方向」を見ていきたいと思う。

仏教の八正道には、以下の項目がある。

正見
正思惟
正語
正業
正命
正精進
正念
正定

これは、いわば心情訓練のビギナー向けの指南であり、エキスパートには「六波羅蜜ろくはらみつ ※2」がある。

※2 六波羅蜜とは、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧をいう。八正道では正念、正定であるが、六波羅蜜では、禅定、智慧というように、順序が逆転している。ビギナーは、念じて座るが、エキスパートは、禅じて「智慧ソフィア」を得る。「愛」の実践には「六波羅蜜」に指南を仰ぐと良いのだろう。

さまざまな解釈があるが、ラインと八正道の関りとして、簡単にその関係性から、私たちがどのようなことに気を付ければよいのか、見てみよう。

運動は正見と関係し、正しく自他の行いを見定めること、
真理は正思惟と関係し、正しく真理を見据えて思うこと、
スピリチュアルは正語と関係し、正しく言葉を語ること、
自己は正業と関連し、正しく己を覚正し自業とすること、
倫理は正命と関連し、正しく公理を理解し命とすること、
美意識は正精進と関係し、正しく美を覚り精進すること、
人格は正念と関連し、正しく人格を重んじて念じること、
性は正定と関連し、正しく本性を見定めて禅定すること、

これらの関係性は、一つひとつが「愛」の諸行に依るものだ。

正見は、人の振り見て我が振り直せというように、先ず他人ひとの行為を観察し自分の思いに気付くこと。

正思惟は、真理の領域とされる内面のこころを正しく見据え、そこに生じる快・不快をよく味わうこと。

正語は、精神スピリチュアルを支える内面の言葉を理解し、自分が話す言葉に耳を傾けること。

正業は、己が正しく目覚めていることを自覚し、自ら自業の所業を見定めること。

正命は、人倫を理解し、公理を自らの命とすることで、正しく命を扱い全うすること。

正精進は、美本来の目的である形と精神を結びつける「身」に対し、正しいしつけを行うこと。

正念は、人としての人格を重んじ、格調ある振る舞いと理念を以て判断、行動すること。

正定は、自らの本性を覚り、欲求を正しく判断する智慧を身に付けるため禅定すること。

これらの学びを実践するために、ある本をご紹介したい。

③ より実践的な「愛」の自覚

「八正道」は、人生における道標であるが、これは浄化の「トレーニングシステム」である。

最近は様々なカウンセリングや心のメンテナンスの方法があるが、以前、「億万長者がたどりつく「心」の授業」という本を読んだ。それをここで紹介しておこう。

早速「こころの授業」の内容を見てみよう。

(1) 自分が苦悩の状態であると気づき、
(2) 深層意識の心の声にしっかりと耳を傾け、
(3) 悩みの本当の正体を特定し、
(4) 美しい心の状態で正しい行動を選択していく

これはこころの浄化プロセスである。

この浄化に必要なメソッドが「八正道」に記されている。

その感情に気付くこと=正見
それを思いながら=正思惟
感情の「心の声」を聴く=正語

自分中心になり悩んでいる事柄を問う=正業
改めて美しい心の状態で自分の使命を問う=正命
そして行動を選択してみる=正精進

さらに実践の心構えとして、

自分本来の理念を見出し=正念
清らかな心を創る=正定

お釈迦様は、この世を救済する大義を目指していた。そのスキルとして、まず自らの「こころ」を浄化する仕組みを導き出した。

その方法が「八正道」である。

次回、いよいよ「愛の展開」として
「愛」の核心に挑む。
お楽しみに。

つづく






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