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競馬いまむかし
全然関係ない話題だけれど、いまぼくは発表が急に決まった文章や、お金に健康といった悩みごとがたくさんあって、まったく首が回らない状態になってしまった。
一人で生きているということは、安心な部分もあるけどとても不安な部分もあって、なかなかきちんとした文章が捗らない。ほんとは今日を締め切りにしたいのだけど、この文章を書いて心を整えてからが勝負だ、と思った。
ちょっと息抜きの記事を書かせてほしい。
※
この前床屋さんで髪を切ってきたとき、キャンペーンでもらった大井競馬のTシャツをたまたま着てたので「あれ、競馬やるんですか?」と担当の方に聞かれた。
正確には1年前に辞めたので、「いやー。やめちゃったんですよ」
と答えた。そうすると担当の方が競馬に興味があるのか、「なんで?」と深く聞かれる。
「だって、いま三連複とか三連単ばっかりじゃないですか。100円ずつかけても16点とか20点とかになったり、いくら100円で抑えようとしても、買い目が広がってって偉いことになるから、なんか「くじ」買ってるような気分なんですよ」
「あー。そうかもね」
「そうすると、配当が万馬券とかになっても、100円しか抑えてないから、30点100円ずつ買ってるとすると、3000円が10000円になるだけで、あんまり美味しくないし、どうしても抑えなきゃって意識が出るんで買い目も増えてしまう。
毎回当たるわけじゃないから、3000円がパーになってしまうのもざらだし、あたったのに配当が3000円以下だと、損になってしまう。そんな簡単に万馬券になるわけないから、あんまり得した感じがしないんです」
「なるほど!」
「何より賭け金が広がる一方で、自分が「いくらまで」って設定した範囲で楽しめないんですよね。「このレースは◯◯円まで」って決められなくて、買い目が増えちゃう。トリガミもあるし、すごい損して一日終わるとかありますしね」
「俺もそうだな、わかるその感じ。俺もやめる。きみはやめて正解だよ!」
と二人で盛り上がって、髪切りの話題そっちのけで競馬の買い方の話をしていたのだけど、ふと床屋さんに褒められながら
「あれ、これ競馬が悪いんじゃなくて、三連複、三連単が悪いんじゃないか」
と気づいてしまう。
父との思い出
ぼくは、小学生4年生の時、新潟競馬場にお父さんに連れていってもらってから、競馬にハマってしまった筋金入りの馬狂いである。中央の新潟競馬はいつでも生で馬が見れるわけではない。大きなレースは全部モニター観戦になる。そのとなりで「新潟県競馬」という地方競馬をやっていた。
漢字が読めなかったぼくは、馬の美しさもさることながら、競馬新聞の特別レースの名前が全部漢字であることに気づいて、その魅力に取りつかれてしまう。
人間どこから文学の道に入るかわからないもので、ぼくは競馬新聞の漢字を覚えて、だんだんふつうの新聞が読めるようになっていった。小学5年の時には、もうふつうの新聞が読めていたと思うけど、その頃は競馬新聞も読めた、ということになる。
たとえば地名は(どこもそうだけど)子どもには読めない事もザラにある。
胎内川特別(たいないがわ)
五泉特別(ごせん)
咲花特別(さきはな)
信濃川特別(しなのがわ)
中ノ岳特別(なかのだけ)
大日岳特別(だいにちだけ)
火打山特別(ひうちやま)
三面川特別(みおもてがわ)
瀬波温泉特別(せなみおんせん)
阿賀野川特別(あがのがわ)
五頭連峰特別(ごずれんぽう)
つらつらとJRAの番組表を今見てみたら、当時難しいとおもっていた漢字をいまはすらすら読める。父が競馬を検討している余裕で、ぼくは目を輝かせながら、「これ、なんて読むの」って聞いていた。
新潟県にはトキという鳥が絶滅危惧種でいて、トキと書かないで「朱鷺」と正式には書く。トキの名前を正式に書いた競馬のレースは2つもあった。
当然ながら子どもは最初は「しゅわし」と読むんだけど、お父さんから「それトキだよ」と聞いたときに眼前に大きな赤い鷲のイメージが膨らんだのをまだ覚えている。
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父はあんまり子どもにべらべらしゃべるのが好きな人ではなかったかもしれないけど、すごく教えるのが美味かった。野球と競馬と将棋と、フォークや演歌のことは大体父親から習った。
「西巻さん古い歌よく知ってるね」
と言われるけど、うちは音楽の話を友達とあんまりしたことがなく、家族とばかりしていた。大正生まれの祖母と晩年はyoutubeで盛り上がっていたから、渡辺はま子や李香蘭、高峰秀子に笠置シヅ子、美空ひばりなんかは祖母と聞いたし、ぼくの好きなフォークソング、さらには鳥羽一郎や前川清くらいは当然父から教わって、リアルタイムではないけど、おおまかな幹の部分で「歌謡曲の歴史」はよく知っている。
年上のひとと音楽の話ができるというのは強みだといまは思う。大学に入ってからはじめて「同世代のひと」と交流するようになったので、あわてて流行りの曲を聞くようになったけど、いま流行っている曲を聞くほうが苦にはならない。いまは歌謡曲全般よく知っているひとになったし、クラシックも子どもの頃から聞いていたので、浅く広くではあるけどよく音楽を知っているひとになった。
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そう。今日は競馬の話だ。
いつの間にか競馬はすっかり市民権を得てしまって、「競馬の魅力を多くの人に知ってもらいたい」と主催者が言うようになった。
でも父と一緒に競馬に言っていたころは、競馬って明るくて楽しいスポーツでは全然なくて、「ちょっと大っぴらにできない事情がある人がやっているいかがわしい賭け事」だったと思う。
ぼくは新潟県競馬のなかで、小学生のときはじめて「腹巻き」をしたおじさんを見たことがある。
「あのバカボンみたいな人はなんだろう」
と思ったけど、父から「あれは両替屋さんだよ」と教わった。
よくみると腹巻きの内側にびっしりと一万円札が入っていて、だいたいメインレースとか最終レースになると、公式の払い戻し所が混むので(当時は手で払い戻しだった)並ぶのがイヤだったり、駐車場が混むので早く帰りたい人が的中した馬券をだして24000円なら20000円くらいでさささっと払い戻しをしてもらっている。
両替屋さんはみんな帰ったあとにこっそり払い戻しをするのだろう。
これはまあ、その腹巻きのインパクトもすごかったけど、まだ健全な商売だったようだ(公認かどうかはわからない)。でも競馬場のなかに場立ちの予想屋さんがいたり、なんか「いかがわしい雰囲気」だなあと思ったのも事実だった。
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ノミ屋さん、コーチ屋さんという人がいた。
ノミ屋さんは利用者からすると、「代わりに馬券を買ってくれるひと」のように見えたらしい。ぼくは見たことがないけど、たとえば病院に入院していても競馬をやりたい人が、病院から電話で「これを買っといて」と馬券購入をお願いしたいときがある。当時はインターネット投票なんてないから、みんなノミ屋さんに頼むのである。
ノミ屋さんは代わりに買ったふりをして、それを窓口には持っていかない。
競馬ってほとんどの人ははずれるので、窓口にいかなくても、ある程度の現金があれば、ごくわずかな「的中した」人に、配当を払っても儲かるというしくみだ。馬券代を全部自分で「飲む」から「ノミ屋」というらしい。
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80年代90年代はこれらが全部ヤクザの資金源だったのだ。
うちの父もそれは知っていたらしいけど、あんまりはっきり言わなかった。でも当時の新潟にはヤクザがまだいたらしい。競馬とは関係ないけど、一度父の車が駅前の駐車場に止めたとき、やけにガラガラな駐車場があった。
他が混んでいたのでそこに止めたんだけど、係員さんがいなかったのでイライラした父が、クラクションをブーブーと鳴らしていたら、隣の「組の事務所」から、ヤクザさんが出てきて思わずぼくは唖然としたことがある。
あれだけ「なんでこの駐車場、管理人がいないんだ」と怒ってた父も、さすがにたまげてしまったらしく、帰るときには大人しく頭をさげて駐車料金を払っていた。
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競馬場というのは、ちょっと道を外したひとが流れ着く「大人の怖い遊び場」みたいな感じ。
国も三連複や三連単なんて売ってなかった。多分ヤクザ対策なのだけれど、「射倖心をあおる」という理由で、あんまり高い倍率の馬券を売らなかったのだ。
当時の馬券は「単勝」「複勝」「連複」のみ。連複というのは2連複で、連単はなかった。しかも、馬の番号ではなくて枠の番号で指定するいまでいう枠連しかない。
はじめて僕がみた皐月賞はサクラホクトオーが一番人気で、まだ「単枠指定」という制度があった。皐月賞みたいな大きなレースは、16頭も馬が出るのだけど、同じ枠に入った馬がまったく勝ち目がない馬だと、何かのアクシデントでサクラホクトオーが取り消しになったとき、返還はできず、その勝ち目のない馬からの馬券が成立してしまうので、「あまりに人気が集中する馬」は、主催者があらかじめ「単枠指定」にして、そういうクレームを避けるのである。
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寺山修司も山口瞳も虫明亜呂無も、一級の競馬文学者だった。山口瞳の「草競馬流浪記」は、そんな僕の経験より前に書かれた「地方競馬を全国回った旅行記」で、当時の競馬の様子を伝える記載が随所にあるし、ゲストで阿佐田哲也(色川武大)さんなど、競馬好きの文学者が出て来て、一緒に地方の競馬場へ行ったりしてる。色川さんは益田へ行っていた。
そんな山口さんは、地方競馬の魅力を「村祭りの小博打感」だと言う。ぼくもそうだよなあと大きく頷いたものだ。
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当時の競馬場は新潟の他に三条競馬場というのもあって、新潟競馬場はだだっ広いのに、三条競馬場はほんとに小さなコースだった。どうも国有の河川敷の上に建てた競馬場らしくて、「杭一本打ったり、改修するにしても国の許可がいる」という。
実際、ボロボロのスタンドで、夏になるとどうしても新潟競馬は中央競馬で使うので、やむを得ず三条を使うという感じで、改修もろくにしてなかった。
ちょっと好きな人はみんな新潟に中央競馬を見に行くから、三条はお盆の開催でも多くて1500人くらいしか入らない。
売店で真夏だというのにおでんが売ってたり、パドックは庇(ひさし)もないので馬を見ようとすると40度の炎暑のなかでずーっと立っていなきゃという状況だったけど、ぼくは都会の新潟競馬よりも、この三条の「ちょっとしたお祭り」感が好きだった。
ぼくの生まれたところには、地域が一体になった「盆踊り」みたいなのはなかったか、あってもぼくは踊りが下手だったので参加しなかったと思う。学校で無理やり踊りを踊らされて、右と左が反対だったりして笑われた。
だけど三条競馬は普段着でも、ほんとに気兼ねなく入れるところだった。さすがに小学生のときは一人ではいかなかったけど、「地元にもどったら絶対行きたい場所」だった。縁日感覚で真夏の暑いときにかき氷を食べて、屋台的なものはおおむね競馬場で食べたのだった。
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コースの中(内馬場)くらい客席にすればいいのに、どういうわけかもともとの地権者が別にいるらしくて、全部畑になっている。
レース中はさすがに入ってこないけど、おばあちゃんらしきひとがレースの合間に勝手に「畑仕事をしている」ので、「なんじゃありゃ」と思ったこともある。
コースが小さいので馬もよく見えたし、騎手がどこでペースを上げるかもよく見えた。まだ笠松で現役をやっている向山牧は、当時の新潟ではトップジョッキーで、他にも、津野、榎、渡辺正、五十嵐といった騎手が凌ぎを削っていた。
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中央競馬の馬はピカピカだけど、地方の馬はほんとに仕上がりにムラがあって、でもどの馬も目は綺麗で、「馬は綺麗だな」と思った。
夏競馬、なんて言うけど、中央競馬なんて正直バリバリのオープン馬なんてめったに来ない。
たまに岩手から当代最強のバリバリのオープン馬が来て、はじめて見た「これはすごいや」と思った馬はスイフトセイダイとモリユウプリンス、トウケイニセイである。
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思い出話はいろいろ脱線してしまうけど、当時の文学者は必ず「馬券を買ってはいけない人」を書き込んでいる。こういう奴は破産する、こういうやつは破産する、競馬で儲けようとするやつは破産するんだ、みたいな感じで、
自分の実体験として書いているから、
「競馬って魅力的」とおもった僕にも、子どもながらその危険性を教える安全弁のような仕事をしていたと思う。
いまの三連単や三連複は、当たりにくいので「当たりやすくするため」にいろいろ書い目が増えてしまうのだけど、ひさびさに山口さんの本を読んでいて、この「ここまで」って自分でラインを引けない人は、ギャンブル依存症で破産するから辞めとけ、ってたしかに書いてあった、と思い出した。
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ぼくはいま息抜きに競馬をまたやるようにした。
いろいろ馬券の本を読んだけど、三連単や三連複を一切やめて、一レース1000円買うのも辞めた。
なんといまは1レース500円で、単勝かワイドを1点しか買わない。そうすると、前より「馬をよく吟味するようになる」から、自然とパドックに力が入る。
大学の時馬券を買っていたスタイルを、さらに研ぎ澄ませて「ムダな馬券は買わない」スタイルに変えたのである。
「競馬は外れるものなので、抑え馬券なんて意味ないよ」という父の格言を忠実に守っている。
気持としては1レースであれもこれもというより、3レースで1500円というふうに予算を決めて、3レース外れたらもう辞める、ということにしている。
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3000円を「あれもこれも」と買うよりも、競馬が楽しくなった。
シンプル・イズ・ベスト。
父は一点3000円で大勝負して、8万くらい払い戻してたけど、買うのは3点が限度と決めていたらしい。
そんな父の思い出とともに、来週は川崎開催である。
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