【歴史夜話#11】上司との人間関係に悩んだ西郷さん
春4月ともなれば、新入社員の季節。
また組織の再編や転勤などにより、新しい環境に挑む方もいるでしょう。職場においては、同僚や上司との関係が重要になってきます。ときにその関係性は、悩みの種にもなることもあるようです。
大らかで器がデカイ、と思われがちな歴史上の人物としての西郷さん、西郷隆盛(吉之介)も、上司である藩主との人間関係に悩み、自殺未遂まで起こしています。
現代に通じる、因果の道筋をたどってみましょう。
開明的な君主だった島津斉彬(なりあきら)
フランスでナポレオンが離婚し、イギリスでダーウィンが生まれた1809年、江戸時代の終焉に西郷さんの最初の上司である、島津斉彬が薩摩(鹿児島県)に誕生した。
曾祖父の8代藩主・重豪(しげひで)は開明的な藩主でオランダ船に乗り込んだりしている。その祖父が愛したのが、利発な孫の斉彬だった。
いっぽう、父の斉興やその側室お由羅の方は、まったく逆の性向だったため、異母弟に当たる久光を擁立しようとしていた。
現代でもある、新しい世界や技術の発展への志向が高い人と、保守的で新しいものは害悪を呼ぶ、と信じている人の対立。それが薩摩という藩のなかで、顕在化していたのだ。
斉彬は藩主になるや、富国強兵策として洋式造船や反射炉、溶鉱炉を造り、ガラスなどを製造する基盤整備を行う。そして人材育成のため、下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通を抜擢した。
西郷の生家は、御勘定方小頭であり財政畑だった。西郷は福昌寺で禅や朱子学を学んでいる。豪快な人物と思われがちだが、算盤などの数理に明るく、合理的な考え方の斉彬に認められる素地があった。
西郷が、農政担当部署に居たときに提出した建白書は、根性論や精神論が好きな日本人のなかにあって、理論的だった。そこで斉彬は彼に興味をもったのだ。
と言っても相手は下級武士なので、お庭方役として直接人物を確かめつつ、根回しをしながら人脈を作ってやった。
西郷に輝かしい未来が見えてきた矢先に、斉彬が急逝する。享年50(満49歳没)の早すぎる死だった。
西郷さんの苦悩
斉彬の死因はコレラとされているが、その症状はコレラではなく鴆(ちん)毒と呼ばれ、当時暗殺に用いられた亜ヒ酸のものだった。
後を受けて斉彬の養子(久光の子)の茂久が家督を相続し、父の久光が後見し、実権は父・斉興が握るというわかりやすい構図だ。
京都で斉彬の訃報を聞いた西郷は、殉死しようとする。しかし僧である月照らに説得され、共に薩摩へ逃れようとした。
だが薩摩藩では、政治犯である月照を受け入れなかったため、西郷は夜半、竜ヶ水(りゅうがみず)沖で月照とともに入水した。
このとき月照は死亡したが、西郷さんは蘇生して一ヶ月近くかけて回復している。蘇生したのが幸か不幸か、本人でなくばわからない機微があるが、日本史にとっては分かれ目だった。
また月照は「眉目清秀、威容端厳にして、風采自ずから人の敬信を惹く」と言われた容姿だったことと、入水という手段から世のBL好きの想像力をかき立てる事件ではあった。
結局、西郷さんと新しい上司である久光公は、終生噛み合わなかった。
久光は西郷が無断で上坂したのを責め、よき口実とばかりに遠島にする。しかし藩内有志の嘆願により、元治元年(1864年)に赦免せざるをえなかった。
このとき、久光は銀のキセルの吸い口に歯形を残すほど、悔しがったらしい。
互いに自らの願望成就に、相手が必要と知っている。だが、生理的にも理性的にも気にくわないのだ。
そのジレンマとストレスは、違法に奪取した身分に支えられた久光と実力の西郷では、感じ方が違っただろう。
各藩は、藩主をどうかついだのか?
久光は公武合体、つまり朝廷の権威を借りて幕藩体制を強化したかったが果たせず、倒幕後は実権すら失った。
自分の意志に反して廃藩置県が断行されると、激怒して抗議のために自邸の庭で一晩中花火を打ち上げた、という。
逆に言えば、その程度の人物が西郷・大久保にかなうはずもない。
久光は最後まで「西郷、大久保に騙された」と言い続けたといわれているが、晩年は名誉職を歴任して実権からは遠ざけられる。
最後まで「飾り物」としての人生だった。
同じく倒幕に傾いた諸藩の実務者たちは、藩主をいかにかつぎ、藩主はどう対応したのだろうか?
長州(山口県)の藩主だった毛利敬親(もうり・たかちか)は、「そうせい侯」と呼ばれた。
藩論が倒幕に傾けば「そうせい」と命じ、逆に佐幕派が台頭すれば、「そうせい」と幕府への恭順を示したと言われる。
ただ慶応元年(1865年)に、食事中にふと、「今日は寅次郎(吉田松陰)の命日だな」と、出された焼き魚に手を付けなかった、という。
藩士思いで「敬愛」されずとも、「愛」された君主だった。
維新後には側用人に、「わしはいつ将軍になるんだ?」と尋ねたとか。
土佐(高知県)の場合、元の君主である長宗我部家の士分は下士として差別されていた。
のちに入ってきた山内一豊の家来である上士とは、処遇がちがっていたので、坂本龍馬ら下士は脱藩して活動している。
巡る因果のたどる道
明治維新で幕府を倒した長州、薩摩、土佐らの諸藩は、かつて関ヶ原で西軍に属し、江戸期に苦渋を飲んだものたちだった。
彼らが江戸幕府を倒して、新政権を樹立する。
新政権では文官を長州閥が占め、警邏(警察機構)を薩摩が握った。
吉田松陰の松下村塾で薫陶を受けた長州人は、理屈っぽくて官僚向きだったのだ。
公文書などで使用される「です・ます」調は、江戸の言葉ではなく、長州言葉である。そして「キレてないですよ!」などの名言で、日本人のなかに浸透していく。
また「コラッ!」などの威嚇、叱咤の言葉は薩摩由来である。
階層が複雑だった土佐は、維新で重要な役割を果たした下士らの多くが斃れることになる。そして皮肉なことに、上士だった乾退助(板垣退助)らが、自由民権運動を興すことになる。
関ヶ原の因縁は、幕府を倒して新政府を興し、さらに今日に至る日本の基盤へと繋がるのだ。
西郷はその晩年、どこか自らの死に場所を求めていたようにも感じる。
佐賀の乱で敗れた江藤新平が、明治7年に西郷を訪ねた当時、彼は下野して武村の自宅で過ごしていた。
雨の降らない限り必ず猟に出かける。
開聞嶽が大好きで、大抵はその山麓方面に犬をつれて出かけ、夕方に獲物である兎をもって帰る。
『今日は二つ獲りもした』『今日は三つ獲りもした』と西郷さんはいつも笑顔で、女将さんに報告したという。
そんなとき、西郷さんは本当の自分に戻って、幸せそうにしていたのではないだろうか。
西郷さんの肖像として知られる、ぎょろりとした目の顔は、弟の西郷従道や従兄弟の大山巌をモデルにしているとのこと。
上野の銅像も、奥さんが「こげな人ではなか!」と言ったとか。
虚像としての姿が先行する西郷さんですが、調べれば調べるほど魅力的な 実像が見えてきます。
明治10年(1877年)、大隅半島の小根占で狩猟をしていた西郷は、彼の影響下に運営されていた私学校の叛乱を知ることになります。
これが西南戦争として知られる、内乱の始まりでした。
西南戦争の領袖として担ぎ出された西郷は、悲劇への道をたどります。
新政府軍に追い詰められ、明日は自害という日。西郷さんは、いくさにも帯同していた犬たちを「わいらは、もう好きに生きるがよか!」とばかりに解き放ちます。
そんな彼の脳裏にあったのは、理想の上司だった斉彬と過ごした短い日々だったかもしれません。
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