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【歴史夜話#10】ニンジャの理想と現実

 海外の人が、ニホンを思い浮かべるときのシンボルとして、『サムライ』『ニンジャ』がよく話題になります。
 忍者のルーツは古く、聖徳太子が「志能便(備)=しのび」と名づけて登用した大伴細人(おおとものほそひと)だ、と言われているようです。
 白土三平などのマンガでポピュラーになり、さらに洗練されたアニメとして海外でも大人気。
 その実像は、どのようなものだったのでしょうか?

イラストACより

走り方もちがった!

 忍者の実像を当時の習俗から考えると、マンガやアニメのカッコいい姿から離れた実像が浮かんでくる。

 忍者は闇に紛れてシュタシュタッ、と軽快に走っていくイメージだ。
 しかし日本人が、古来から受け継いでいる歩き方・走り方は「ナンバ」と呼ばれる、同じ側の手と足を動かす方法である。

 これは歌舞伎にも見られる所作だ。
 そもそも西洋人のような、体をひねり手足を交互に出す動きは、着物では難しい。武士のように、腰に大小を差した状態ならなおさらだ。

 さらに整地された道などまれだったから、一般の日本人は走ることが滅多になかっただろう。
「親分、てーへんだ!」と駆け込むシーンも、ふつうはなかったと思う。

「くノ一」と言えば、現代ではセクシーな装束の女忍者だが、これも存在しなかった。
 く・ノ・一で「女」という漢字を顕すのは、女性の奉公人を情報源とする、という隠語である。

・刀は一度でも人を切ったりしたら、刃こぼれや脂によって切れなくなるので、武士はスペアの脇差しを携行した。大小二本差しの意味はこれ。
・忍者が水上歩行したとされる「水蜘蛛」は、実際に使えば沈没する。
・日本の在来馬は、ポニー程度の体高だった、などなど。
 幻滅する情報が多いようだ。

イラストACより

黒装束のデザイン元

 現代人になじみ深い黒装束の忍者スタイルは、いつ生まれたのか?
「にんじゃ」という呼称も、昭和以降に使われるようになったもので、もともとは「しのびのもの」や「しのび」という呼称だった。

 今の忍者の原型は、江戸「宝暦」の頃の芝居や歌舞伎に見られる。 
 歌舞伎などでは、盗賊という形で登場する「しのび」に、「忍者」という言葉が当てられるのは、昭和に入ってから。
 講談の真田十勇士などを経て、山田風太郎の忍術小説等によって、ポピュラーになった。

 現在のイメージの元となる黒装束がポピュラーになるのは、モノクロ・テレビの普及が大きい。
 忍者はベビーフェイスが白装束で、ヒール側が黒装束というプロレス同様、わかりやすいシステムだった。

 善玉の白忍者は弱くて、あっという間に黒忍者に倒されてしまう。そこから主人公がひとり奮戦して、黒を退治するという流れだった。
 特撮の芽生え、とも言える時期だ。編集ミスで人物が、次のシーンになると消えてしまった、ことが忍術の演出として使える、となった。
 手裏剣は逆に、出現のミスから生まれた。

PhotoACより

情報互助会だったニンジャ組織

 忍者の源流としては、聖徳太子が使ったという「良き情報の入手を志す者」という意味の「志能便(備)」が「しのび」の発祥のひとつ(*諸説あり)。

 さらに山岳信仰における山伏、修験者が情報伝達者としての忍者のイメージに合致する。
 山林修行で足腰の鍛錬をした、という側面もあるが、法螺貝や狼煙などによる情報伝達の速さを、神秘的に演出した。
 
「護摩」という火を焚く儀式に使われるウルシ科植物は、燃やすことによる熱変性で、幻覚作用をもたらす成分を揮発させる。
 これを集団催眠の演出とともに「幻術・妖術」に使った。

 もうひとつの忍者の源流としては、「乱破(らっぱ)」「素破(すっぱ)」「草」「奪口(だっこう)」「かまり」などがある。
 室町時代に生まれた「足軽」と同じ傭兵集団で、夜襲などを行う剽悍な忍者のイメージはここから。
 これは、雑賀・根来などの鉄砲集団として、あなどれない戦力となっていく。

 忍術書である「万川集海」には、梵語(サンスクリット)風の記載がある巻もある。忍者は宗教勢力と密接な繋がりがある。
 忍者は、夜陰に乗じて城中に忍び込んで情報を盗み出すわけではなく、敵味方に分かれた一族の者同士が、情報交換を行った。 
 多くの人が土地に縛られていた時代、社寺に帰属した御師などの拠点を、修験者が結びつけてネット化したのだ。

 忍者を使役するということは、自らの情報も漏れるリスクと裏腹だった。戦国大名は、こうした前提のもとに忍者を使役した。
 だから、偽情報を流すディス・インフォメーション工作もよく行われている。
 
 武田信玄などの創業者は、汚い工作にも手を染めたので、こうした階層の心理がわかっており、うまく使いこなした。
 しかし二代目になると、きれいな現実しか見ていないので、多くは忍者を卑しい者と見下して裏切られている。

Sam WilliamsによるPixabayからの画像

有名な忍者

 個人としての忍者は、甲賀地方・馬杉(ますぎ)に住む大伴細人を、聖徳太子が登用したのが始祖とされる。
 太子は、秦河勝(はたのかわかつ)という人物と、服部氏の一族も志能便に登用した。

 天武天皇は、多胡弥(たこや)という忍びを使って、城内に放火させるなどの工作を行った。
 天智天皇になるとさらにカッコ良く、金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼という四鬼を使った。
 金鬼はその名が示すように固くて、矢も通らない。風鬼は大風を起こし、水鬼は洪水を起こし、隠形鬼は身を隠して誘拐工作を行った。

 戸隠流忍者の始祖は、中国から来た「異勾」(いかい)と言われ、「世鬼一族」などがいた。
 初期の忍者の多くが「鬼」と呼ばれているが、これについてはまた他日。

 あとは上杉謙信が使っていた「軒猿」(のきざる)や、後北条氏の「風魔(風間)」が有名どころだろう。
 幻術を使ったとされる忍者としては、飛び加藤(鳶加藤)として知られる加藤段蔵や、果心居士などがいる。
 
 しかし諜報工作員としては、むしろ名を知られないほうが、プロとして一流だ。本当の忍者は、人知れず活動を行って人知れず消えていったのかもしれない。

 山伏や修験者が、過酷な鍛錬でアスリートとして優れた力を発揮したのは本当かもしれません。
 しかし、人智を超えた能力となると、やはり自らを売り込むためのトリックでしょうね。

 昭和世代のヒーローは、なんと言っても「カムイ外伝」のカムイでした。男の子はみな、友だちとすれ違い様に「変移抜刀霞斬り(へんいばっとうかすみぎり)」を繰り出し、クロスカウンターを放ったものです。

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